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オリンピックと聞いて、感じた「神の栄冠」のはなし
"キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。"
ピリピ人への手紙 3章14節
オリンピックが行われていますが、宣教師パウロは「競技」「決勝点」「栄冠」という言葉で信仰を説いています。
礼拝のメッセージでも、キリストの弟子には競技者であることが必要と聞いたことがあります。
僕自身、昔はまったくこの事が自分ごとになりませんでした。でも今は少し違います。
"彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。"
コリント人への手紙 第一 9章25節
僕は23歳の時に教会に行き始めました。自分は弱い人間で、支えが必要だったからです。
社会に出てからは、教会生活に支えられながら、仕事の荒波に揉まれていました。
僕の目的は「世の中でなんとかやっていく」だったのです。
"今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。"
テモテへの手紙 第二 4章8節
やがて自分の無力さと、強くなりたいとの想いから「教会じゃなくてもいいんじゃないか」と思うようになりました。
2019年、初めて正しいキリストの福音を聞き、救われました。そして気づいたことがあります。
信仰生活の中で気づいた事があります。神でありキリストであり聖霊である方を主人とする生き方が1番幸せであると。
「世の中で何とかやっていく」ではなく「神様の子どもである事を味わっていく」人生を神様が臨んでいるのだということです。
"わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。"
イザヤ書 61章10節
神様の事を追求し第1とする喜びを、味わう期間としていきたいと思います。