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底辺の甲子園論

今年も甲子園が始まっている。

さまざまな批判がある高校野球だが、今回は元高校球児の視点から甲子園について書いてみたい。

僕は小3〜高3まで約10年野球をしてきた。高校は県内ベスト16〜8を彷徨う中堅公立校だったが、S台育英など甲子園常連校との練習試合がたまにできる環境だったので、それなりの高校野球偏差値はあったと思う。そのぶん、練習も比較的厳しい方で1000回以上は辞めようと思った。

高校野球は理不尽で意味不明なものが詰まっている。坊主、炎天下での試合、過酷すぎる練習などなど挙げたらキリがない。ちなみに一説によると坊主を強制するのは普通なら体罰にあたるらしい。

世の中にはなぜこんな前時代的なことをやるのか不思議に思う人もいるだろう。

その理由をあらゆる意味で底辺な元高校球児の僕から言うと、国民的ドラマである「甲子園」の演者として「高校球児」役に多くの学生がなりたいからだと思う。また、それをみたい人もいるから。

高校球児はある種、特別な地位が付与されている。それはたかが高校生の部活動の大会がインターハイなどとは別個の大会として開催され、全国中継され、「熱闘甲子園」などの特集番組が組まれていることからも明らかだ。サッカーやラグビーと比べても注目度や世間の熱狂度合いも桁違いで、毎年、特に夏の伝統行事となっている。

メディアは血眼になって球児たちのストーリーを探し、現在までの軌跡を作り出す。母との二人三脚、父との約束、監督との絆などあらゆる文脈を作り、甲子園というひとつのドラマを盛り上げ、彼らをまつりあげていく。

そんなメディアが作り出すストーリーに自分を、自分たちの高校を、いくらかミニマムにして重ね、全国13万人の高校球児が国民的ドラマの演者となっている。無論、それは保護者や顧問、コーチも多かれ少なかれあると思う。実際、僕の親はいまだに僕の母校の応援にいくし(僕は卒業後1回しか行っていない)、事あるごとに高校野球の話をする。

ドラマ「高校野球」(底辺版)のベタなストーリーはこうだ。まず坊主にすることで野球に青春を捧げる姿勢を見せる。ここである種の異常性の獲得とともに他の部活動との差別化を図っている。球児役になる通過儀礼だ。校内では比較的辛い練習をし、他の生徒や教師に一目置かれる。他活動が夏前に引退するので、「お前らは頑張れよ」と一足遅く甲子園予選が始まる野球部への期待が高まる。校内の期待とそれまで支えてくれた家族の期待などを背負い、トーナメントに臨む。仮に同レベルの高校といい試合をしても、圧倒的強豪校にコールド負けをしても、学校と保護者などの期待を一身に背負った野球部員たちはその戦いぶりを称えられ、そして、球場で泣き崩れるまでが高校球児役の様式美だ。

正直に言えば、僕も当時負けて泣いたが、しばらくすると多少の自己陶酔を感じていた。ガチで練習したが、及ばなかったという「高校球児しぐさ」が完結したからである。底辺的なことを言えば、泣くまでが高校野球なのである。

しかも、このドラマは連綿と続いていくので後輩たちに過去の自分を重ね、毎年「過去のドラマ出演」をかみしめることができるという一生モノの箔になる。もちろんこれは各種部活動でも言えるが、高校野球はメディアが多く取り上げるので、とりわけその効力が強いと思う。

何度も言いたいが、これは底辺の甲子園論でクズの戯言である。甲子園出場の可能性が高い高校やプロも視野に入れている人とは違った観点だろうし、こんなひねくれた見方をしない人もいるだろう。

それとも僕が個人的に「死に様」が好きなだけかもしれない。昔から、武士の切腹、板垣退助の最期など壮絶な死に様の話が好きだった。プロ野球でも2006年プレーオフで斉藤和巳がサヨナラを喫し、崩れ落ちる姿が大好きだ。

高校野球でもそんな場面が一番好きだ。そんな自分であるからして、高校球児の最大の見せ場は泣きにあり、そこにカタルシスを求めているのかもしれない。ただ、この感情は僕だけではないと思いたい。絶対に元高校球児でも上記のような様式美を描き、ドラマ「高校野球」のクライマックスは泣きだったと思う人がいるはずなのだ。最後、存分に役者として悔し涙を流すために辛い練習を乗り越えたと言っても過言ではない。

甲子園はひとつの大きなドラマであり、高校球児役に泣きは必須だ。彼らがずんぐりむっくりな坊主姿でひたむきに野球をしていることが伝わり、異常な練習をしていればいるほど泣き場は盛り上がる。(僕みたいな)観客はその死に様に感動するのだ。

とは言っても、僕は現在の高校野球はおおいに問題ありだと思う。実際に熱中症になったこともあるが、夏場に何枚も重ね着をして12時間くらい練習するのは正気の沙汰ではない。夏の開催じゃなくてもいいし坊主もやらなくていいと思う。時代が代わると同時にドラマ「甲子園」も変わらざるを得ないだろう。それこそ、甲子園でなくドーム球場でもいいと思う。

出演経験をいまだにひきづっている諸先輩方は怒るだろうが、彼らのための部活動ではない。老兵はただ消えるように口を出すべきではなく、心の中で「あの頃の高校野球はよかった」と呟いておけばいいのだ。

僕も古き良き「甲子園」を愛しつつ、時代にあった安心安全な設計の新たな高校野球を望む。


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