インプット奴隷合宿
着くまで
大晦日の昨日、朝10時頃に旅館を予約して二度寝。起きて本を買って新幹線に乗る。都会から知らない路線を乗り継いで、知らない生活圏に入っていく瞬間って、これからもわくわくするんだろうな。
着いてから
上品な関西弁を話す女将がいて嬉しかった。お風呂が気持ちいい。
岩波講座 社会学 1 理論・方法
岸政彦の論文を読んだ。問題意識としては、一見すると社会問題なのに、本人たちに質的調査を行うと「自分はそうとは感じていない」といった状況に陥ったときに、社会学者が、本人たちを尊重しながらどのようにアプローチするかというものだった。
デイヴィドソンの議論を参照しながら、原理的に社会学者ができることを述べようとしていてよかった。デイヴィドソンの議論はわからなかった。しかし、問題が一見すると問題ではなくなってしまいそうな場面で、どう問題なのかを視点を変えて指摘するというのは、まさに学者の仕事だよなと思う。
デイヴィドソンの議論は、言語一般の翻訳可能性について語られている。つまり、私と誰かのコミュニケーションについても、同じことが言えるのだ。簡単に言えば、翻訳は失敗することもあるが対処可能だ=分かり合えないわけではないという趣旨だっただけに、理解できなかったことが悔やまれる。また読み直すぞ。
筒井淳也の論文。計量社会学が数字をどのように扱い、現実の何を説明しようとしているのかが述べられていた。社会学でデータを「記述」することがなぜ重要視されているかが分かった。
ルービン・モデル(あるいはランダム化比較実験)で、変数とその効果が説明できたとしても、社会学として現実に起きているプロセスを説明するには十分ではないということ。現実に起きているプロセスを説明するにはそのようなモデルをある程度断念する必要があるということ。もはや、説明手法のトレードオフの関係があるのだから、段階的な関係ではなく、対照的な関係として見直す必要があること。どれも重要な指摘であると思う。
瀧川裕貴の論文。順番に読む。計算社会科学を社会学の方法としてどう適用するかという論考。主に、観察データがコンピュータ上であること、データの分析がコンピュータ上でできることにどのような可能性があるかが論じられていた。
「異性愛男女のデイティングの記録をデジタル化し、自然言語処理技術等も応用しつつ、アーヴィング・ゴッフマンの相互行為儀礼理論を検証している」という紹介があって、デートの記録を許すカップルがそんなにいるのかと驚いた。カップルYouTuberもいるし意外とそうなのかもしれない。
ただどうしても、「データの不完全性」として述べられているように、課題としては研究倫理が残ってしまう。もし今後VR上で人びとの身体的な距離の近さや使っている言葉を逐一記録できるようになったとしても、必ずプライバシーの問題がある。
完全に絵空事だけど、プライバシーが守られたデータの中で、相関関係を見出されたら面白いのかもしれない。
中身には言及しないけど、「国家の正当性と象徴暴力――ブルデューの国家理論からみる国家とナショナリズム」で言葉の意味についての実証研究が重要になってくると述べられた直後に、「<社会>が生まれ<ソサイチ―>が消える――明治期における「社会」概念と公共圏の構造」という言葉の意味に関するケーススタディ的な論考が配置されていて、流れの綺麗さがあった。(もっというと、その一つ前に戦後史に関する問題提起もあって、国家の研究から言葉の意味の研究へと続く流れになっている。)
「小集団実験による相対的剥奪モデルの検証再考」は、量的研究のケーススタディになっている。とても読みやすかった。一方で次の「社会的カテゴリーの集合論モデル――台湾エスニック・ナショナル・アイデンティティの事例分析」については、理論部分がまったくわからなかった。僕が集合論まわりに弱い。しかし、こちらの研究は一見すると量的研究のケーススタディだが、一人の回答からでも興味深い回答となっているのはその通りだと思った。
三谷武司の「社会学的啓蒙の論理」を読んだ。「ルーマン社会学の一般綱領」と呼ばれる論文「社会学的啓蒙」の再構成。一般的に「啓蒙」と呼ばれているものと、ルーマン以前の社会学、ルーマンの社会学をそれぞれルーマンがどう区別し、ルーマンの社会学にどのような位置付けがされたのかを理解できる。
三谷がその論旨を再構成する中で、「意味世界」や「複雑性」、「偶然性」などルーマンが使用した術語の解説を折々で挟んでくれるのが非常に良かった。「一般綱領」に対するこの再構成を理解することで、今後新しくシステム理論を読む際の目的意識も定めることができるし、何より術語に少しは馴染みをもちながら読んでいけるのだろうなという期待ももてた。(もちろんここからさらに知らない単語は出てくるだろうけど。)
読めてよかったと思った。
Overviewでも書かれていて、特に違和感もなかったけれど、実証研究の側から理論へ再構築の要請を求めるような構図の論文も多くあり、これがこの講座本の趣旨なんだなと納得。
岩波講座 社会学 10 家族・親密圏
野田潤「家族の近代と親密性の論理」を読んだ。僕自身は、小学生の頃に「君の名は。」が大ヒットしていて、すっかり「この人が運命の人」のようなロマンティック・ラブ・イデオロギーに飲み込まれてしまうような時代に生きている。しかし、この論文では戦前、戦後、高度経済成長期ではそのようなことが当たり前ではなかったということが、通時的に実証されていく。
戦後から高度経済成長期にかけての家族のあり方の変容も興味深く、「生活保障の責務」と「愛情」が一体化していく様子が示されている。さらに、高度経済成長期から現在にかけての検討もされており、日本独自の家族のあり方についての実証研究はさらに必要だとのこと。
中盤、終盤でも指摘されていたが、家族の親密性や愛情が形としてどのようなものであるかをめぐって「時に真逆のものをも正当化し、また批判してきた」というのは本当に重要な指摘だと思う。僕らが日常で想像するような家父長制を内面化したおじさんも、そのヤバさは何をもって愛情とするかのすれ違いでしかないということであり、いつか今度は僕らの愛情の形が批判される日だってやってくる可能性もある。
岩波講座 社会学 13 文化・メディア
辻泉「趣味とファンの文化社会学」を読んだ。筆者が自身の文化社会学の研究をピックアップし、文化社会学を研究するとはどういうことかの検討を我々に促す論考。アイドル趣味と鉄道趣味の研究が紹介される。
アイドルファンに対して「かっこいい」だけでなく、能動的に「かわいい」を読み取る姿勢をカルチュラル・スタディーズに結びつけたり、鉄道趣味に関して、「人格類型論」と「意味論分析」を適用し、時代ごとの特徴を明晰に説明してみせたり、洞察としては驚かされるものがほとんどだった。(反面、これをやれと言われても困るという感想も抱く。)
牧野智和「2010年代自己啓発書ベストセラーに見る「心の習慣」」を読んだ。ベストセラーとなった自己啓発書の分析を通して「流動的な現代を生きる人々にとっての望ましい「自分」のモデル」を考察したもの。社会に対して「そのようなものだ」と距離を取り、自らの心のあり方を整えることを説く姿勢が共通して語られている、という指摘には納得した。自身の学校教育でも、本屋で生き方について悩んだときでも、確かにムードとしてはこのようなものばかりだった。
さらに、社会の複雑で大きな問題から目を背けず、向き合うことを説くような議論がまったくといっていいほどなかったという指摘もある。先のような自己啓発が主流となっている私たちの状況からみても、決して見逃してはいけない視点だと思った。
終わりに
以上が、今回の2泊3日で読んだものでした。4冊持ち込んだけれど、分量としては1.5冊ほどで終了しました。来年は多少金銭的な余裕ももって、4泊5日などで望みたいと思う。
1日中本を読む体験はもちろん新鮮だったけど。それ以上に、せっかくの旅行なのに、ご飯をサラダ・果物・ヨーグルトだけにしたりする修行感が癖になりそうでよかった。
最後に、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
精一杯