【やが君2?次創作】「誰に微笑む」
高校2年、5月6日
市ヶ谷知雪は焦っていた。生徒会長選挙の投票日を間近に控え、ラストスパートのこの時期。具体的な数字には出ていないものの、現在最も有力な候補と目されているのは彼ではなく、七海澪という生徒だった。
市ヶ谷は七海と直接の面識はなく、その評判も噂に聞くのみであった。曰く、成績優秀で人当たりもよく、顔立ちも整っていて人気者。かたや市ヶ谷は体格こそ人並みだが顔の表情に少々険があるため他者にしばしば威圧感を与え、小さな子どもにはもれなく怖がられる。自他ともに認める真面目な性格だが、どちらかと言えば「真面目」の頭に「生」が付くタイプである。
そんな市ヶ谷にしてみれば、人気者に顔と雰囲気で差をつけられたような負け方をするのはたまったものではない。このまま負けるわけにはいかない。そう思った彼は七海陣営がどのように選挙活動を行っているか調査を行うことにした。残り僅かな選挙戦に活路を見出し、勝利するために。
彼女らがいつも打ち合わせをしているという自販機前のスペースへ足を運んだ市ヶ谷はしかし、七海陣営の様子をひと目見るや、驚愕に目を見開いた。かの第四十代生徒会長候補筆頭が。人望ある優等生、七海澪が。
怒られている。
「みーおー。候補者演説の原稿、まーだできてないの?」
「うん……」
「もう本番すぐそこだよね?」
「はい……」
「由里華は責任者になった次の日には原稿仕上げてたじゃん……」
「ごめんなさい……」
隣では七海の推薦責任者である山根由里華が苦笑いしている。肩を落とす筆頭候補。市ヶ谷は呆然と眺めていた。すると視線に気づいた七海が顔を上げた。最悪のタイミングで市ヶ谷は七海と目が合ってしまった。市ヶ谷はいたたまれない気持ちになったが、七海の反応は彼の予想に反していた。
「お?あれは生徒会長候補の市ヶ谷くん!みんな、スパイだよ!!」
「えっ」
七海陣営の生徒たちが市ヶ谷を振り向く。市ヶ谷は一層混乱した。悪いことはしていないのだが、指摘通り偵察ではあったので、悪事を暴かれたかのような心持ちになる。市ヶ谷が別にしなくてもよい釈明を考え始めると、ふたたび七海が動いた。皆が市ヶ谷に気を取られた隙を突き、足元の紙袋をひっつかむと、流れるようなフォームで自販機前のスペースから走り去った。
「覗きは感心しないけど、ナイスタイミング!じゃあね!」
唖然とする市ヶ谷。「廊下を走るな」、七海にかける言葉をどうにかひねり出したころには彼女の姿は見えなくなっていた。
「逃げられちゃったね。」
「ねー。」
七海陣営はさして驚いた様子もない。そのことが市ヶ谷を一層混乱させた。七海を叱っていた女子生徒に山根が微笑みかけると、彼女も山根に笑みを返す。そうして彼女たちは紙束やら手提げ袋やらを各々手に取り、別々の方向へ去っていった。去り際に山根は市ヶ谷へ振り向き、「なんか、ごめんね。気にしないで。」と苦笑いした。ひとり取り残された市ヶ谷はしばらくその場に立ち尽くしていた。自分は一体何と戦っているのだろうか。
自陣営に戻った市ヶ谷は仲間たちに「俺たちにできることを全力でやろう」と月並みな言葉を告げることしかできず、その日はそのまま解散した。方策は何も浮かばなかった。叱られて走って逃げた七海の体たらくを皆に伝えても仕方がない。ただしこのまま帰宅すると今日何もしていないことになるため、市ヶ谷自身は下校する生徒たちへのあいさつをすることにした。既にひと気のない正門へ市ヶ谷がとぼとぼ歩いていくと、そこに先客がいた。
「あれ?市ヶ谷くんだ。なんかお疲れだねえ。」
気疲れしているのは自業自得だと市ヶ谷もわかっているのだが、目の前の七海のせいにしたくもなってしまう。七海は候補者のタスキを掛け、背筋をシャキッと伸ばしている。足元には紙袋。
「間が悪いというかなんというか。課外受けてた人たちがさっきまでは通ってたんだけど、もうあんまり人来ないかもよ?部活が終わる時間ってなると……あと1時間半くらい?」
「その時間まで残るつもりなのか?」
「そりゃあ、あたしもできることはやんなきゃね。みんなもがんばってくれてるし?」
市ヶ谷は目を丸くした。最終下校時刻まで残って活動する候補者などいないと思っていた。彼女も努力しているということか。感心する言葉を市ヶ谷が述べようとするが、七海の言葉の続きが先んじた。
「でも当分人来ないだろうから、しばらくジュースでも飲みながらさぼっちゃおうかな。せっかくだし、いっしょにどうっすか?市ヶ谷サン。」
「……いやダメだろ……。」
「ちぇー。ま、お互いがんばろうね。」
怠ける宣言をした者にお互いがんばろうと言われてもいまいち気合いが入らない。今しがた感心するのに使ったカロリーを返してほしい。市ヶ谷は呆れながら、気になっていたことを七海に尋ねた。
「七海さんって、なんで生徒会長になりたいと思ったんだ?」
「それは、見栄ぇ張りたいっていうか……うーん、はずかしいから言いたくないなあ。」
七海が本気で照れ臭そうに微笑む。この期に及んでまだ恥というものがあるのか、と市ヶ谷は訝しむ。七海が続ける。
「って感じで動機はふわふわしてんだけど、いざ立候補したらさ、みんなあたしを生徒会長にするためにすごいがんばってくれて、それがほんとに嬉しいんだ。だから絶対会長になりたいし、みんなが助けてくれるからあたしみたいなのでもほんとに会長になれる気がしちゃうし、みんなの助けがあればほんとにこの学校をよくできちゃう気がするんだよねえ。」
七海が柔らかく微笑む。市ヶ谷が返す言葉を見つけられずにいると、七海が急に目を見開いた。
「お?……おお!そうだよ!演説でも普っ通ーにこういう話すればいいじゃん!あたしのアピールポイントなんか考えるから詰まるんだよ!そっちは由里華がどうとでもしてくれるんだって!」
そう言えば原稿ができていないという話だった。さぼっていたのではなく詰まっていたのか。七海は腕を後ろに組んで上体を前傾させると、市ヶ谷の顔を覗き込んで不敵に言い放った。
「市ヶ谷くん、敵に塩を送っちゃったねえ。来週月曜、勝負だよ!」
七海は足元の紙袋をひょいと持ち上げ、校舎の方へと去っていく。市ヶ谷は再び立ち尽くす。七海澪とまともに関わったのは今日が初めてだが、終始置いてけぼりにされてしまった。校舎へ戻る七海の後ろ姿を目で追っていると、七海の頭が少し上を向き、ゆっくり左右に動いた。市ヶ谷もその動きに倣ってみると、校舎2階・3階の窓から七海陣営生徒の姿が見えた。それぞれ忙しく廊下を歩いていく。七海に視線を戻すと、彼女は昇降口横の冷水機で手早く水分補給を済ませ、足早に校舎内へ消えていった。市ヶ谷は取り残された。この時間帯の正門は本当に人が来ない。どうすれば七海澪を打倒できるか、起死回生の策は結局浮かばなかった。
高校2年、5月10日
放課後の廊下に市ヶ谷がひとりぼんやりと突っ立っていた。目の前の掲示板には前日の投票で勝者となった七海澪の名前が高らかに掲げられていた。結果に察しがついていたため、人だかりがなくなるのを待ってから見に来たのだ。市ヶ谷陣営も自分たちのできることに全力で取り組んだが、及ばなかった。彼は体育館のステージに立つ七海澪の姿を思い返していた。誰もが聴き入った堂々たる演説。もし先週彼が七海と話していなかったならば、自信満々な優等生の姿を少しだけ憎たらしく思ったかもしれない。しかし今の市ヶ谷は知っていた。彼女の目に光を宿すのは仲間たちへの信頼。彼女の背筋を伸ばすのは仲間たちからの信頼。彼女ならば、彼女とならば、何かを成し遂げられるかもしれないと、そう思わせる力があった。
「あれ、市ヶ谷くんだ。おつかれー!」
七海が歩いてきた。隣には山根と、市ヶ谷の知らない生徒も連れている。
「いやあギリギリだったけど、勝ててよかったよ。」
「票数わからないでしょ。適当言ったら逆に失礼だからね?」
山根が注意する。市ヶ谷が口を開いた。
「七海さん、生徒会役員の枠ってまだ空いてるか?」
七海は一瞬目をぱちくりさせたが、すぐに答える。
「今んとこ1・2年ふたりずつだから、大丈夫だよ。……っていうか、探してたんだよね、最後のひとり。早速だけどこれにサインしてもらってもいいかな?」
七海がちょうど持っていた書類を手渡す。市ヶ谷が署名して返すと、七海はそれをふむふむ言いながら眺めた。
「改めてだけど……おしゃれな名前。『雪くん』だね!」
「はい?」
「じゃあ雪くん、早速だけど、コレ……」
独特なあだ名をつけられ戸惑う市ヶ谷は七海が持っていた紙束を無抵抗で受け取ってしまった。市ヶ谷が手もとを改める。先ほどの書類が人数分と、プラスアルファ……プラスガンマくらいだろうか。
「職員室に出しといてくんない?終わったら生徒会室集合で!それでは……解っ!散っ!」
七海をはじめ4人の生徒たちがバラバラの方向へ歩き去った。市ヶ谷はみたび取り残され、立ち尽くした。
「……いやいやいや」
かくして市ヶ谷知雪の忘れられない苦難の日々が幕を開けたのであった。
(「誰に微笑む」おわり)
【七海澪視点】"For whom the flower blooms?"
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