【やが君2.5次創作】Regarding "the 40.5"(山根由里華について)後編
槙聖司。堂島卓。小糸侑。佐伯沙弥香。
そして。
七海燈子。
私は5年半ぶりに母校・遠見東高校の体育館に来ていた。ぼんやりと眺めていた「ー出演者ー」欄のページは入口で配られたパンフレットではなく、携帯の画面に映し出されたもの。ほんの1週間ほど前、何の前触れもなく、パンフレットの写真とともにメッセージが送られてきたのだ。
「高校の文化祭で生徒会劇が復活することになった。もしよければ観に来てくれないか?」
実際、前触れは全くなかったというわけでもない。バイトの大学生・こいとれーちゃんからのメッセージ。現在の生徒会役員の子が7年前の、私たちの代の生徒会長、つまり七海澪について調べていた。そこから数か月、今度は当時一緒に生徒会役員をしていた雪くんからのメッセージだ。それで様々なことが繋がってきた。七海燈子。とーこちゃん。他ならぬ澪の妹が中心となって生徒会劇を復活させたのだ。私たちの代、主演の澪がいなくなって中止となり、以後途絶えていた遠見東高校の伝統、生徒会劇を。
聞けば雪くんは夏休みの時期から演劇の指導をしているという。生徒会劇の復活には興味がある、と。それは理解できる。私も心動かされる部分はある。「七海燈子」の名前まで出てきたら尚更。しかし私たちの劇はもう実現しない。澪はもう帰ってこない。残酷なことに、それが全てだった。雪くんは今更私に何を見せようというのか。夏休みから関わっていて、何故本番直前になって私に連絡してきたのだろうか。
「大変長らくお待たせいたしました。生徒会劇『君しか知らない』、開演いたします。」
私の戸惑いをよそに、体育館の照明が消え、舞台の幕が上がる。わからないことばかりだが、今は劇に集中しなければ。舞台にはベッドで身を起こす少女。ひと目でわかった。とーこちゃんだ。
「……ここは…病室?」
少女は大けがをして入院し、記憶を失っているようだ。大けが……。少女の痛々しい包帯姿が喚び起こす「あの日」の光景を私は努めて頭から追い出した。今一度舞台のとーこちゃんを見る。漢字で書くと「燈子」なのか、というのが最初の感想だった。「とーこ」という音と、それを運ぶ声が私には全てだったから。印象として、芝居が巧いと思った。綺麗な黒い髪。高校2年になったとーこちゃんが纏っている雰囲気は、7年前、同じ体育館のステージに立っていた時の澪。凛とした生徒会長の澪だ。私はそう直感した。
「私は…誰だっけ……?」
「失礼し…ああ!目が覚めたんですね!」
看護師が病室に入ってきた。恐らくあの子がこいとれーちゃんの妹、こいとゆーちゃんだ。こいとれーちゃんの面影があるにはあるが、幾分背が低いので印象が違う。
「…怖いんです。自分がわからないのが…」
少女と看護師の掛け合いが続く。こいとゆーちゃんは7年前の生徒会長について調べていた。しかも姉を通じて面識のないOGに尋ねるという迂遠な方法を採った。校内で有益な情報が得られなかったということだ。少なくともとーこちゃんは確実に知っていることなのに。心がざわざわする。この劇には何かがある。単に文化祭を盛り上げる役割以外の、特別な何かが。
その後も劇は進行する。まだ序盤だが、既にただの文化祭の出し物にしておくにはもったいないくらいの仕上がりで、私は素直に感心する。目を覚ました少女のもとへ見舞い客が訪れる。クラスメイト、義理の弟、そして、
「…ああ…!よかった……」
ただならぬ様子で女の子が駆け寄り、手を握る。客席が少しざわつき、歓声が上がる。消去法で行くとあの生徒が佐伯沙弥香さんだ。彼女も巧い。巧いが、それ以上に、「入って」いる。役の言葉を、感情を、ほとんど自分のものにしている。とーこちゃんの手を取る彼女に演技以上の何かを感じてしまうのは私だからだろうか。
主人公の少女は3人の見舞い客が語るかつての自分の姿がバラバラであることに戸惑いを見せる。3つの顔。私が思い出すのはあの子のことだ。あの体育館のステージに立つ頼もしい生徒会長の顔。生徒会室や教室、帰り道で見せる友人としての顔。そして大好きな妹について語るときの姉としての顔。どれも鮮やかな3つの色彩が重なり合い、白く暖かな光を放つ。私の知る七海澪はそういう人物だった。
しかし主人公はそのバラバラに耐えられない。本当の「自分」がわからない苦しみを夜の病室でひとり吐露する。今やとーこちゃんも深く、深く「入って」いた。異様なまでの存在感に目が離せない。絞り出すように発せられる言葉が悲鳴のように聞こえた。やめてくれ。私に何を見せようというのか。
「私は誰になればいい……?」
舞台の幕が下り、十分間の休憩が告げられる。私は体育館の天井を見上げていた。照明の点いた高い天井が滲み、斎場の景色と混じり合う。行き交う黒が光を呑み込み、高い天井が音を吸い込む。私は泣いていた。棺にもたれかかり、ずっと、ずっと泣いていた。私を包むのはやさしい静寂ではなく、かき消しきれないノイズのような言葉。
「燈子ちゃん、お姉さんの分もしっかり前を向いて生きていくのよ。」
やめろ。
「お姉さんの分も」
「澪ちゃんみたいに立派に」
やめろ。
「「「お姉ちゃんみたいに」」」
やめろ。あの子に代わりなんていないの。あの子はもう帰ってこないの。とーこちゃんがどんな風に成長するか、あの子は何より楽しみにしているの。やめろ。やめろ。
私は「あの日」の記憶を必死で振り払う。私はもう泣かないと決めた。涙を抑え込んで再び前を見る。休憩時間が終わり、照明が消え、舞台の幕が上がる。
「私は誰かに…ならなくちゃ……」
主人公が本当の自分を選ぶべく模索し始める。とーこちゃんがどんな答えを選ぶのか……見るのが怖い。けれど目が離せない。陽の光の入らない暗い館内に滲み出してくる11月の冷気に身体の芯が冷える。主人公はかつての3つの顔を確かめ、あとは誰になるかを選ぶだけ。……そこへあの看護師がやってきた。こいとゆーちゃんがとーこちゃんにツカツカと歩み寄り、チョップをくらわせた。私は呆気にとられた。
「いいですか、人は誰かにはなれません。」
台詞が熱を帯びる。ここにきて、こいとゆーちゃんまでもが「入って」きた。やはりただの演劇ではない。この舞台は彼女たちにとって何なのか、私に正確なところはわからない。しかし何かが込められた生徒会劇が今、正念場を迎えている。
「あなたがいなくなるのは寂しいよ。」
とーこちゃんが目を見開く。私の頭の中でぐるぐる回っていた思考が繋がり始めた。斎場でとーこちゃんにかけられた言葉。とーこちゃんが纏う生徒会長・七海澪の雰囲気。生徒会劇の復活。澪について独自に調べ、知っているこいとゆーちゃん。「あなたがいなくなるのは寂しいよ」……邪推だ。私は事情も知らない部外者に過ぎない。だから邪推に過ぎないのだが、どうかこの劇が終わった後も、彼女たちに何かが残っていてほしい。……いや、カッコつけすぎた。彼女たちのことは彼女たちしか知らない。私がこの劇から何か意味のあるものを勝手に受け取りたいだけなのだ。
陽の光が差すような照明の演出。私の心臓の鼓動が速まり、冷気を撥ね返す。主人公が現在の自分の姿で3人の見舞い客と向き合う。彼女のこれからが見えてくる。そして。
ありがとうこれまでの私
私はもう大丈夫
私は私になれるから
澪、聴いた?高い天井いっぱいに拍手が鳴り響く。こいとゆーちゃんがとーこちゃんに何かささやくと、とーこちゃんの目から涙があふれた。その涙に本人がいちばん驚いて、少しあたふたし始めた。
「ふふ、可愛い。」
私はまた上を向き、目をハンカチで抑えた。しばらくそうしていた。周りの観客からは変な人と思われたかもしれない。クオリティが常軌を逸しているとは言ってもあくまで演劇だし、涙を誘うタイプの話ではない気もする。でもあれはただのお芝居じゃなかった。とーこちゃんにとっても、同じく涙を流す私にとっても。
「山根さん、来てくれたんだな。」
「雪くん、お疲れさま。」
目を抑えたまま返事をする。どうして雪くんは直前になって連絡をよこしてきたのか。確証はないけど、何となく思ったことを訊いてみる。
「ねえ雪くん。この劇、最初はちょっと違う脚本だったんじゃない?」
「そんなこと、よくわかったな。」
「合ってるんだ。じゃああそこだ。後半の、看護師が出てくるところくらいからでしょ、変わったの。」
「そこまでわかるのか。まあ、そうだな。脚本が変わって、今の形で完成したものを見たとき、山根さんにも観てほしいって思ったんだ。何となくだけど。」
「何となく、ね。ふふ。」
「さて、そろそろ俺はあいつらの所に戻らなきゃな。」
「うん。佳い劇だった、よくやった、って言ってあげなきゃ。でしょ?」
「ああ、そうだな。それじゃあ山根さん、今日は来てくれてありがとう。」
「私も、ありがとね。今日のことは一生忘れない。」
雪くんの足音がステージの方向へ消えていく。私がハンカチで目を抑える時間が、予定より延びてしまった。
体育館を出た私は空を見上げる。太陽の白い光は暖かく、柔らかく、頬を撫でるそよ風にも不思議と冷たさを感じない。私の視界は澄んでいた。今日も結局泣いちゃったけど、今回のは許してほしいな。私から零れたのはあなたを失った悲しみじゃない。いつか私がそっちへ、あなたに会いに行くときのいい土産話ができたんだよ。とーこちゃんが劇を作り上げて、やり遂げて、終わったら泣いちゃって、可愛かったな。うらやましいでしょ。泣いて悔しがれ。じゃなきゃ不公平だから。
太陽の端を飛行機がかすめ、陽の光がチカチカと明滅した。あの子が笑いかけているみたいだった。
Regarding "the 40.5" おわり
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