選択の海を渡るために -Detroit: Become Human プレイ感想
3月の中旬から4月下旬にかけて、『Detroit: Become Human』というゲームをプレイしていました。ネタバレに配慮しつつ感想を書いていこうと思います。
ゲームの概要
"人間と同等以上の外見・知性を兼ね備え、様々な労働や作業を人間に代わって担うようになったアンドロイドは、社会にとって不可欠な存在となり、人類はかつてない豊かさを手にいれた。
しかし、その一方で、職を奪われた人々による反アンドロイド感情が高まるなど、社会には新たな軋轢と緊張が生まれはじめる。
そんな中、発見された奇妙な個体。「変異体」と名付けられたそのアンドロイドたちは、あたかも自らの意思を持つかのように行動しはじめたのだった。"
上記のような背景をもつ2038年のアメリカ、デトロイト市が舞台。美麗なグラフィックと、選択肢により無数に分岐するマルチエンディングが特徴的なゲームで、「参加型の映画」とも評されます。
3人のアンドロイドが主人公となって物語が進みます。選択次第で主人公含め主要キャラが普通に死亡するのでかなり緊張感があります。
本作における「選択」
この「選択の緊張感」は本ゲームの面白さに大きく寄与しています。また同時に、私たちが選択の連続である人生を歩むうえでの気づきを大いに与えてくれるものでもあったと感じました。
すでに述べた通り、このゲームでは自分の行った選択によって特定のキャラクターの生死(アンドロイドについてもここでは生死の概念を適用して言及します)が左右されます。右に行けば生存、左に行けば死亡といったシンプルな選択だけでなく、ある選択をすることで未来のルートが固定され、それによって死亡するキャラがいるなど、分岐の仕方も多様です。物語を最も大きく二分するのは「アンドロイドが人間たちに対して権利を要求する際の行動が、闘争的か平和的か」という点ですが、この分岐以前に行った選択が、分岐先での結末を左右したりします。
また、大局に対してあまり大きく影響しない選択もあります。結構慎重に行った言葉選びが、別にその後の展開に影響していないように感じられたり(詳細には検証していないので、筆者の勘違いの可能性もあります。ルート分岐に影響するなにかしらのパラメータは変動していたのかも)。
しかし、「ここでの選択がめっちゃ重要」「この選択による大きな展開の差はない」というのを事前にプレイヤーが知ることはできません。これはまあストーリーのあるゲームはどれもそうだろとは思うのですが、一周のプレイ時間が10時間程度となり、かつキャラクターが死んでも「ゲームオーバー、やり直し」とならないゲームにおいてはやはり重みがあります。
後悔と変化
かくいう自分も、ゲーム中盤でとっさの判断に激しく後悔する場面がありました。緊迫感のあるシーンで、残り時間がぐんぐん減っていく中、自己保存的な選択肢をしてしまい本来目指していた調和的な展開を引き寄せられませんでした。物語全体の結末を決定するような分岐ではありませんでしたが、とっさの場面で普段の主義信条(と自分で思っているようなもの)に反する選択をしてしまう自分を自覚し、まあまあ大きいショックを受けたのが印象的です。
このゲームの性質上、いつだって運命の分かれ目が訪れうる。なのにそれに対して心の準備をきちんとできていなかったのが敗因だと思っています。これを機に、ゲームを起動する前には毎回、自分がどんな結末にたどり着きたいのか、そのためにはどういう姿勢で訪れる選択肢に対峙するべきなのかを考え、それを反芻したうえでゲームプレイに臨むようになりました(なんだかスポーツみたいだ)。
このスタンスを貫こうとする中で一つ気づいたのは、自分で定めた姿勢は、それに従った選択を行うごとに強固なものとなっていくということです。自分のスタンスをざっくりまとめると、「アンドロイドの権利獲得に向けて歩みを進める。そしてそれは本質的に、『人間とアンドロイドの逆転』とは異なるものである」という感じで、明確に権利を主張しつつ非暴力・宥和的主張に徹しました。結果的には物語の展開に作用しないようなひとつひとつの言葉選びもこの指針に沿って行っているうちに、その場その場の反応的な選択でも、「ゲーム性・物語性」を根拠とした展開読みに基づく選択でもない、一貫した行動選択ができるようになっていったと感じます。
結果から見ても上記方針の効果はてきめんだったと思っていて、全員生存ではないものの、自分として十分にやり切ったと思える結末に至ることができました。自分で打ち立てた方針によって自らの首を締め、失ってしまったものもありますが、むしろその点については今でも選択をやり直す気になりません。(平和的・調和的な選択をすればみんな生き残れるわけではない、というシビアさもこのゲームの美点だと思います)
この体験は、現実での自分の人生の中にも存分にフィードバックできるものだったと感じています。改めて「七つの習慣」大真面目に読み直してみようかな。
余談
この教訓、めっちゃ既視感あるなーと思っていたら
(『ワールドトリガー』-葦原大介著 3巻より)
ワートリ!!!修!!!
三雲修は僕の生き方に影響を与えた架空の人物の一人ですが、ああ、なんか近いステージで思考できたんだなと思って感慨深くなりました。
なおこのゲーム、近未来SFでおなじみの「高度に発達したアンドロイドは心を持ちうるか」「彼らに人権を認めるべきか」といった命題を主に扱っています。テーマ自体に新しいものはなくとも、やはりここまでに述べてきた選択に重みを持たせるゲームシステムが、自然とプレイヤーをこの題材に関する深い思索に導いてくれていると感じます。
「人の姿を持つアンドロイドを創ることの危険性」「心とはなにか?」みたいなことも色々考えさせられました。アンドロイドが普及した世界については、本作および日本のアニメ映画「イヴの時間」を題材に思索が捗りそうです。日本においてアンドロイドが普及した場合の未来像として、後者の作品はいまだに高い納得感があります。10年以上前の作品なのにすごい…。
その辺もいずれ筆を執りたいなと思いつつ、とっくに2000文字を超えているので今日はここまで…。