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幸せのボーダーライン
何不自由なく自分の足で歩けること。
食べるものに困らないこと。
雨風凌げる温かい家で安心して眠れること。
どれも一見当たり前のことのように思えて、実は当たり前のことではない。
日本ではスタンダードかもしれないことでも、世界に目を向ければそれが決して当たり前ではない地域はごまんと存在している。
だからこそ、自分が常に当たり前だと思っていた日常を当たり前だとは思わず、感謝の気持ちを抱き続けなさい。
そんな教えを、小学校や中学校の道徳の授業で学んだのはきっと自分だけではないはずだ。
だが、ところがどっこい、常日頃ありとあらゆる当たり前の日常に感謝して生活している人間なんてのは殆ど存在しない。
毎食食べてるご飯も、快適で住みやすい家も、好きな時に好きなことができる健康な身体も、当然それらの環境下にいる自分が恵まれていると分かっていながらも、だいたいの人は無意識のうちに当たり前の日常と化させてしまっている。
むしろ食事の際に毎回命に感謝して泣きながら食す人や、自室に最大限の感謝と敬意を払いながら毎晩眠る人間なんてのがいる方が恐怖である。そこらへんになると宗教や精神病の類で、おそらく普通に生きてたらそんなことを考えながら常に生きてる人は殆どいないはずだ。
ただ、時折ほんのイレギュラーなことでいつの間にか自分が当たり前の日常が当たり前ではなかったことを思い知らされる時が訪れる。
風邪を引いて寝込めば健康体だった自分の身体を羨み、寒い日にエアコンが壊れれば毎日何不自由なく暖かい部屋で暮らしていた過去を恋しむ。
薄情で単純かもしれないが、人間というのはそういう生き物なのだ。
昨年に左膝半月板損傷と両足股関節唇の損傷及び左股関節の疲労骨折箇所摘出という、もう名前を書くだけで頭がクラクラしてしまいそうになる手術を2度にわたって受けた自分も、案の定というかやっぱりというか、既述したとおりの感情を覚えた。
全く動かない術後の身体、階段を登るのも一苦労の松葉杖生活、そしてボールを蹴ることはおろか走ることすらままならない自分の足。
死にたくなるほど絶望する毎日で、これまで自分がどれだけ幸せな日常を過ごしていたか嫌というほど痛感させられた。
毎日元気にサッカーができて、自分の足で好きな場所へと行ける毎日は決して当たり前ではなく、とてもとても幸せな日常だったのだと、恥ずかしながらも29歳で初めて思い知らされたのだ。
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最初の手術から10ヶ月、ようやくボールを触れる許可が降りた自分は久しぶりに芝生の上でボールに触れた。
一度は辞めたサッカー、だけどこうして色んな人の支えがあってもう一度向き合える気持ちになって、そして素晴らしい医者達のおかげで痛みも改善されて、こうしてボールを再び蹴ることができるようになった。
芝生の匂い、生暖かい風とスパイクを履いた時の胸がキュッと締め付けられる感覚。
懐かしいフィーリングと、これまでの事が走馬灯のように頭をよぎって、この時は思わず感極まってしまった。
スパイクを履いて芝生の上でボールを蹴る、たったこれだけのことでさえ、とても大きな儀式のようにさえ思えたほどだ。
それから数日後、ある社会人チームの練習に行った。
当然まだガッツリは参加できないから、最初のアップがてらの強度の低いミニゲームだけ混ぜてもらったのだが、ミニゲームが始まってすぐに絶望した。
足が全く動かず、少し走れば一瞬で乳酸が溜まり、パスが来てトラップをすれば見当違いな方向にボールが転がっていったのだ。
10ヶ月もサッカーをやらず、おまけに2度も手術をしたのだから当然身体が鈍ることくらいは理解していた。
だが実際の鈍り具合が想像を遥かに超えていて、まるでサッカーを始めた最初期に戻ってしまったかのようなほどに身体が動かないのだ。
海外の下部リーグといえども、お金を貰ってプロとしてサッカーをしてきた以上ちっぽけなプライドもある。(下手だけど)
そのちっぽけなプライドも秒で音を立てて崩れ落ちた。あの時の自分は、そこら辺のサッカーを始めたばかりの中学生よりも動けていなかったのが明白だった。
あれだけサッカーができる幸せを噛み締めていたはずなのに、この日は帰りの車の中で「こんな惨めな思いするならサッカー辞めとけばよかったな」と、引退を撤回した過去の自分を激しく後悔したほどだ。
だけど、これが人間なのだと思う。
どれだけその場では幸せを感じれても、それは遅かれ早かれ日常になり、当たり前になる。
次第に当たり前だけでは満足できなくなり、欲を出してはより一層の幸せを求めてしまう。
どれだけ日常の幸せに気付いていても、人間は欲深い生き物で、それ故に現状に満足せず無意識のうちに更なる幸せを追い求めてしまうのかもしれない。
ただ、それが決して悪いことだとは思わない。
それこそヨーロッパに戻ったら、「ボール蹴れるだけで幸せハッピーっす!!」なんて言ってる場合じゃなくなる。
結果を求められる生活の中で、サッカーできるだけで幸せなんて言ってる余裕は微塵もなくなるのだろうから。
現状に満足せず、常に高みを目指すのがアスリートならば、決して「今のままでいいや」なんて低い幸せのボーダーラインは設定すべきではないはずなのだ。
だからこそ、せめてヨーロッパに戻る7月中旬までは、大袈裟でわざとらしくとも、例え惨めな格好だとしても、サッカーができる今に感謝をしたいと思う。
サッカーを辞めると言った自分に「もう一度ウチでやろうよ」と声をかけてくれた人たちがいて、「手術してもう一度できる可能性があるならやるべきだよ」と背中を押してくれた両親がいて、そして忙しい中2度も手術をしてくれた医者やリハビリにずっと付き合ってくれたトレーナー、今のサッカーができる日常は間違っても自分1人で手に入れたものではないはずだから。
いずれサッカーが不自由なくできる時間が当たり前になるとは思うけど、それでも今だけは感謝の気持ちを忘れずに、残りの3ヶ月少しでもコンディショを上げれるように頑張ります⚽️
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ただ、走り込みは本当にキツくてもうしたくないです、、、。