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メシマズ疑惑

 入院生活に、楽しみはほとんどない。

 読書とラジオとときどきテレビ。楽しみはそれだけ。そのほかに何か挙げろというならば、敢えて言えば食事だろうか。

 とはいえ、18日間の入院生活の半分以上は点滴絶食ライフだったので、その間、食べることについてほぼ考えなかった。前にも書いたが、なぜか絶食は意外と平気だったのだ。
 食事時間に廊下から食べ物の匂いがしても何も感じず、食の欲求とは少し違う次元で、アタマの中では「退院したら食べるもの」リストを作っていた。

 だが、いずれは食べることになる。食べられるようにならなければ(正しくは、きちんと消化できるようにならなければ)、退院できない。
 そういう意味で、食事の許可が出るのをひたすら待っていた。「食べたい」というよりも、「食べられるようになりたい」と。

 食べるからには、不味いよりもおいしい方がいい。病院食だから過度な期待はしていなかったが、ため息をつきながらイヤイヤ食べるのだけは勘弁だった。

 ところが、このささやかな希望をパリンと割られるようなことがあった。

 熱が下がってから、点滴をしていない時間帯を利用して、ワタクシもマダム・パッタン同様、病棟の周回コースでウォーキングを始めた。

 ある日、歩いている途中に耳に入ってきたのだ。

「この病院、ごはんがまずすぎるのよねー」
「ほんと、そうよねー」

 サロンに席を占めるおばあちゃま方の会話だった。

 フロアの西端にテレビやソファを備えるサロンがあり、そこによくおばあちゃま方が集っていた。そこそこサロンから距離があるワタクシの病室でも、扉を開けていればおしゃべりが聞こえてきていた。会話から察するに、みなさんそこそこ手練れの入院患者と思われた。

 みなさん元気がよい。よいことだ。病院ではあるけれど。病院であるからこそ。

 どれだけおいしくないかを力説なさる。他の病院の食事がどれだけおいしかったかも熱を帯びる。

 「そんなにおいしくないのか… 」

 食事解禁を待つ身としては残念極まりない情報だったが、聞いてしまったものは仕方がない。悪評判を聞こうが聞くまいが、出てくる食事の味は変わらない。ただ、そんなに待ち遠しくなくなった。外の影響を受けやすいのだ。

 その後、ややスローモーだったワタクシの回復状況は緩やかに上方に向かい、入院12日目、夕食として最初の食事が出た。

 「そっか、おいしくないのかー」と思いながら目で確認。

 重湯、具なし味噌汁、キウイのゼリー、すりおろしりんご、オレンジジュース。咀嚼が必要なものは何もない。
 絶食明けはこのような流動食から始め、少しずつ胃腸を慣らしていくのだそうだ。このときは、なんとこれで満腹になった。

 それで、味はどうだったかというと、おいしいとかおいしくないとか、そういう贅沢な感想はなく、「口から食べられることはありがたい」という思いだけだった。10日以上も点滴とポカリスエットで栄養を繋いできた身として、当然の反応だったと思っている。

 その後、退院まで日に三食が提供された訳だが、個人的な感想としては、不味いと思うことは一度もなかった。事前情報として、あれだけ丹田にチカラがこもった声で

「メシマズー!」

と刷り込まれたにもかかわらず。所詮これも主観の問題だ。

 最後までおいしくないとは思わなかったが、これは幸せなことだ。一因は、おそらく、ふだんの食事が薄味だからだと思う。

 食事 → 検査 → 診察 を繰り返し、退院前の最終的な食事内容は、ここまで普通化した。

 この食事を最後に、18日にわたった入院生活は終了した。

 

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