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ポケモン第五世代に囚われたオタク
ブラック・ホワイトが発売された当時、俺は小学生だった。
小学生がやるゲームなんてとにかく出てくる相手を倒すだけ。愚直にクリアを目指すだけ。当時の俺にとってBWは他のゲームと変わらない「プラチナの次に新たに発売されたポケモン」でしかなかった。
殿堂入りまで新ポケモンしか登場しないことがどれだけ画期的で貴重な世代だったかなんて考えもしなかった。ストーリーも惰性で読んでいた。なんかよくわかんないけどプラズマ団を倒すぞーって感じ?
大人になった今、BWのストーリーの完成度の高さやそれまでのシリーズとは一線を画すその挑戦的構成を理解し、何度も噛み締めては感傷に浸っている。
BWは明らかに大人や青年向けに作られたポケモンであろう。DPtが爆ハネしたのを受け、そこで獲得した顧客を逃さないようにという案だろうか、実際ゲームフリークにどのような意図があったのかは分からない(詳しくないから)。つまりBWにはそれまでのポケモンシリーズではあり得ないほどのチャレンジングな試みがいくつも現れている。
まず挑戦的な点として第一に挙げられるのが、物語のテーマとして従来のポケモンでは当たり前のように受け入れられてきた「ポケモンをモンスターボールに入れて縛り付ける」という行為に対して一石を投じるストーリーになっているということ。それまで四世代にわたって作り上げてきたポケモンシリーズという世界における根本的システムに対して自ら批判を投げかけるようない内容を作品の根幹に据えるその勇気。当時既に、もはや子供向けコンテンツの金字塔になっていた作品とは思えないほどのアグレッシブな企みと言える。さらにそのテーマの先にあるのが「宗教を利用した利益の独占」というどこか現実味を含んだ悪性。
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一番好きなシリンダーブリッジのシーン。
交通量によって騒音に塗れた橋の上で聞かされるゲーチスの真意。周りの誰にも聞こえない。自分しか聞いていない。自分しか止められない。主人公に使命を与えるシーン。ここを話題にしている人間を全く見ないが、ポケモンセンタートウキョウの入り口スペースにこのシーンの画像が貼ってあるということは製作陣的にも印象深いシーンなのだと信じたい。
そのプラズマ団の王として君臨するNと言う存在も、今までのポケモンシリーズで登場したどの敵にも似つかない複雑な属性を孕んでいる。世界の秩序を破壊せんとする敵であり、共に成長するライバルであり、それでいて(あろうことか主人公より)ポケモンと心を通わせた人間であり、そして哀れな操り人形でもある。この複雑なキャラクターを登場させるということが、どこか作り手側から我々プレイヤーへ向けられたある種の信頼のようなものを感じさせる。
さらに
・伝説のポケモンに見そめられるのは主人公だけとは限らないんだと突きつけてくるような、今までのシリーズを逆手に取った展開
・従来の作品では味方側の絶対的な砦として存在していたチャンピオンか崩れ、もう世界を救える人間が主人公しかいないと言う状況になること。
・今まであまり話に絡んでこなかったジムリーダーが終盤で再登場する展開
など挙げればキリがないほど、今まで培った枠組みを壊しながらそれでいて面白いストーリーを本気で作っていることが伝わってくる。
人とポケモンはどう向き合うべきなのか、絶対的な答えなんてないから主人公とNはぶつかりあう。でもきっとチェレンが10番道路で言ったように人の数だけ理想や真実がある。Nの城でプラズマ団に懐いたミネズミを登場させるのは、その多様性というテーマに対する誠実さを感じさせた。主人公に感情移入したプレイヤーにとっては不愉快になりかねないシーンであるにも関わらずこれを描写した勇気を私は本当に愛している。
あとゼクロムが手に入るのがホワイト、レシラムがブラックという”外し”を入れてくるのも、もはや子供に売り出すことを考えていないのではと思えるほどだ。その外しの意図がBW2によって回収される様も美しい。
きっともうこんなポケモン作品は出てこない。それはDPtに比べてBWがそこまで伸びなかったことや、当時よりももっとずっと長い歴史によってポケモンがもはや子供向けゲームとしてあの時よりも強固に確立してしまった、ということにもよるだろう。それは仕方のないことでもある。しかもその一端を担ったのが我々過剰にダイパを持ち上げた世代であることは誤魔化しようのない事実なのだ。(俺自身はネットで発信したことはないが)ニコニコや掲示板でダイパを持ち上げBWを叩くようなコメントをいくつも目にした。
俺自身も小学生の当時はBWの魅力は何も理解できていなかった。アデクがNに負けたシーンはネタとして消費していた。あのシーンから醸し出される絶望感、喪失感、その中で光るアデクの人間性。そういったものを感じ取る能力は当時の俺にはまだ備わっていなかったのだ。先ほどの作り手側の信頼の話で言えば、俺はそれを裏切ってしまったことになる。
だから現実を嘆くよりも、今のポケモンのストーリーに文句を言うよりも、俺はBWの世界に浸り尽くすことで得られる感情を抱き締め続ける道を選ぶ。