新宿MAYHEM メン子の面倒の後始末 その5
メン子の家に向かう。これが私の最後の訪問になるだろう。西武新宿線の駅から歩き、お世辞を重ねても綺麗とは言えないアパートの二階にたどり着く。跡形もなく痕跡を消さなくてはならない。私がこの家に来たこと事実がなくなってしまうように。私の中からメン子が消えていくように。あの子は尋常じゃない色に髪を染め、痛々しいほどのピアスを付け、見た目は毒々しい哀れな虫だったけど、それでも心根は優しい女の子だった。
だからと言って愉快だったわけじゃない。
私はメン子の家のドアを開けた。玄関からそっと滑り込むと、メン子の家からは何もかもがなくなっていた。私は声を出さずに驚く。すべてが消失していたからだけではない。メン子の居住区だった部屋の真ん中に、一人の人物が立っていたからだ。
その人物は、黒い上下に身を包み、私を見てゆっくりと言葉を紡いだ。
「そろそろ来る頃だと思った」
彼女は言う。
「待っていたわ、凝侭田鍛さん」
無人だと思っていたのだろう。凝侭田は驚いているようだった。何もないメン子の部屋で、私は彼を出迎えた。
「あなたは」
「阿戸野茉莉、仕事は《事後屋》」
私は最後の仕事をしに来た。
すべてが後の祭りではあるけれど。
「新宿警察署の凝侭田刑事。地域課だったら捜査に来てもおかしくはないけれど、ここが新宿区じゃないから来るのはそもそもおかしかったのね」
下井草駅は杉並区だった。新宿区所轄の凝侭田が来るとしたら、それは仕事熱心に過ぎる。
「だから何だと?」
「『だから何だと?』そこが問題よね。だから何でもないのよ」私は強く言う。「メン子が死んだ後に来た時に、メン子が読まないようなパチスロ雑誌が落ちてたから、男の影があったのにすぐ気づくべきだった。私の友人に調べてもらったけど、あんたがメン子と付き合ってた男ね」
凝侭田は何も答えない。あっさりした顔は無表情。不快感を与えない面持ちだ。
内容は不快なのだけど。
「メン子はあんたに依存していたでしょうけど、あんたもメン子に依存していた。メン子の体の痣はあなたの仕業でしょう」
「何の話かな」
「だから、何でもないのよ。あんたとメン子の関係が、どれだけ不健康で歪でも、私にもこの世界にも何の影響も与えない。それにこれは終わった話。だから本当にどうでもいい」
違う。
本当は終わっていない。
終わっていないのは私だ。
私が納得したいためだけに私はここにいる。
「メン子は体の痣のことを何も言わなかった。メン子をいたわっていたのは私が一番じゃないかしらと思っていた私にも言わなかった。あの子は言わないって決めていた。メン子がそう決めたのなら、私がとやかく言うことじゃなかった」
でもそれでは、私が終われないのだ。
人の物語に介入してかき回す。
小説に出てくる探偵でもないくせに。
でもメン子は、私に頼んでいた。
『あたしが死んだら片づけに来てね』
だから私は片を付ける。
「メン子の手首を切ったのはあんたね」
「何を言う」
「証拠はないわ。あんたも何らかの証拠が残っていないか確かめに来たようだけど、この前私が片づけてしまった。強いて言えば、リストカットにしては深すぎるのにためらい傷がないことくらいの状況証拠しかない」
私が『仕事』をしたばかりに。
「でもその後メン子は自分で首を吊った。それが証拠なんだと思う」
凝侭田が少し動揺した。やはりメン子の縊死は彼の想定の外にあるようだった。
「『誰かのために生きるのは誰かのために死ぬのと同じ』メン子が言っていたことよ。あんたに依存していたメン子は、あんたのために生きることを選んで、死んだのよ」
本当に、面倒臭い女だ。
だから凝侭田も殺そうとしてしまったのだろう。
「そんなはずは」
「あるのよ」
私は少し泣いている。
ただしそれは悲しみではない。
悔しさの涙だ。
「あの子はどうしようもなく惨めだったけど、心は天使だったから」
九条の言葉を引用してしまった。だけどもそれがとてもしっくりした。
しっくりしてしまって、本当に悔しかった。
メン子は、私のためには生きてくれなかったのだ。
ああ、私もまた彼女に依存していたのだ。
「あんたの罪を問うことはできない。立証もできないし、何よりメン子が望むことじゃない。メン子が身代わりになったのよ」
「そんな」
「あんたにとっては、途中まで手を下したとはいえ、面倒臭いメンヘラの女が一人死んだだけでしょうね。でも彼女にとってはそれ以上の意味があったのよ。そして私にもね」
凝侭田の表情は変わらない。
凝侭田の心情はわからない。
こんな男のために身代わりになることはなかったのに。
「これが多分メン子の想い。でもきっとあんたには伝わらないのよね」
だからこそ――
メン子は私に依頼したのだ。
私がメン子の遺言の代わりだ。
全く、面倒な後始末だ。
「メン子……」
凝侭田が膝をついた。そしてそのまま土下座のような姿勢になった。私はそれを冷ややかに見つめる。今更そんな状態になられても、誰も得をしない。生きてるうちからメン子に思いを注いでやればよかったのだ。
私のように。
「私の言いたいことは終わり。私はあんたがしたことを、警察に言うつもりもない。ここにだって来ない。だからあとはあんたが一人で――」
苦しんで、散らかるといい。
私は空虚な部屋を後にする。
凝侭田がどうなったかなんて知らない。
終わった事件に関わるといつもこうだ。
誰も後味の悪さを拭ってくれないのだ。
だから今夜も、私は新宿で酒に溺れる。
私だって面倒臭い女の一人でしかない。
アパートの階段を降り、郵便ボックスの前に立つ。薄汚れた金属の箱は、どこを向いても汚い反射しかないような鏡地獄だ。その中に、汚い手書きで一つの名前があった。
大島綿子
「そうか、メン子、あんた綿子って言うんだったね」
私はその名前を指先で撫で、撫でて撫でて擦って擦って、消してやろうかと思ったのだけど――
メン子の名前は綺麗になっただけだった。
(了)
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