Arrow allows a law 第一章(ジョジョ4部二次創作)
第1章
1
S市のベッドタウンとして、1980年代から急速に発展した町、杜王町。歴史は古く、縄文時代の住居跡があり、侍の時代には別荘や武道の訓練場のあった土地だ。
それがぼく、広瀬康一の住む町だ。特産品は牛タンの味噌漬けだけど、ぼくはまだ食べたことがない。他の町からは有名でも、案外町の人からは遠いものってあると思う。例えば、奈良の人が毎日奈良漬けを食べているとは思えない。
ぼくはカフェ・ドゥ・マゴで水を飲んでいた。高校一年生が喫茶店に入り浸っていいのかと思うが、億泰君は「ドゥ・マゴはオープンテラス、だから中には入ってないッ!」と力強く宣言していた。それでいいと思う。秋に入りかけて涼しくなり、のんびりオープンカフェで過ごせるようになった。けれども1人でコーヒーやら何やら頼むのは気がひけた。そんなのは杜王町では、営業に疲れたサラリーマンか、不良学生がすることだと思う。
「お客様ァー、ご注文はお決まりでしょうか?」
トボけた顔のウェイターがぼくに訊く。さっきから3回目だ。
「あ、すみません……待ち合わせの相手が来るまで待ってください」
「わかりましたァー」
本当に誰か来るのか? と疑わしそうな顔でウェイターが去っていった。でもまた五分後にやってくるだろう。
「遅いなァ、由花子さん……」
既にコップのなかには氷が溶けた水しかなくなっていたが、流石にお代わりを頼むのは厚かましいだろう。
さて、由花子さんというのは、ぼくの、その、恋人であり、何と言うか、まぁ、付き合っているのだ。
山岸由花子――
仗助君に言わせれば、「あの女だけはマジ勘弁、プッツンしてるぜェ~」ということなのだが、それはぼくらの出会い方が悪かっただけで、僕から言わせれば思い込みが激しくて意志が強い分、優しい心も強い女性だと思う。
「あれ?」
ボ~っとしていたのか? 視線を前に戻すと、知らない人が座っていた。
待ち合わせの相手じゃあない。初めて見る女性だった。
髪は金色よりも白に近く、顔は北欧系だった。頭の両脇から束ねた髪が肩の上に落ちている。デニムのジャケットの下にレースとフリルをふんだんに使った白いカットソーを着ていた。彼女は頬杖をつき、水色の目でぼくを物憂げに見ていた。
「あのー」
そこは人が来るんです、と言いかけたが、日本語が通じない雰囲気だった。すっごく綺麗な人だなぁ。ロシアの人みたいだ。
「日本のような高温湿潤の国でオープンテラスを開くのは無理があると思うわたし」
だが、ぼくの予想に反して彼女の口からは流暢な日本語が流れ出た。アナウンサーよりも正しい日本語、高いお金を払って入場するクラシックのコンサートのような響き、加えて雪解けの春の小川を思わせるすらすらとした喋り方だった。
「そもそも薬品の匂いがすると思う水。こんな水で喫茶をするのはどうかと思うわたし」
だけど、文法には難がありそうだった。いや、ちょっと待て――
「何ぼくの水飲んでるんですかァッ!?」
白髪のツインテールの女性は、ぼくのコップを傾けてわずかな水を飲んでいる。しかも、コップの中に舌を入れ、ぺろりと雫を舐め上げている。
「物を舐める時、日本ではどんな音で表現するのか興味があるわたし」
そう言って彼女はぼくを見つめた。顔立ちは幼い。ぼくと同じくらい、高校一年生の少女なのかもしれない。
「え、そりゃあ」ぼくのスタンド、エコーズは音に関する能力がある。だからよくわかるのだが。「『ペロペロ』とか『ベロォォン』じゃないですかね?」
少女は首を傾げてから、またコップの中身を舐め始めた。
「ペロペロペロペロペロペロペロペロベロォォン」
いや、口で言わなくてもいいだろ。というか何だこの人。おかしいのか?
「あの、あなた何ですか? 日本の方、じゃないようですが」
「ヘンリエッタ・レディボーゲン。国籍は誇りと歴史あるイタリアなわたし」
「イタリアの方ですか。てっきりロシアかと。日本語上手ですね」
「意思を伝えるものが言葉。意思さえ伝わるのならば国籍は関係ないと思うわたし」
「……」
やっぱりちょっとおかしい気がする。
「で、ヘンリエッタ・レディボーゲンさん? がぼくに何の用ですか?」
「あなたには用事がないわたし」ヘンリエッタさんはキッパリと言った。「待ち合わせをしているわたし」
「あの、他に席もあるから、移ればいいと思います。相手の人も、座るところがあった方がいいと思います」
「待ち合わせの場所はここじゃないわたし」ヘンリエッタさんは立ち上がりつつ、地面に置いてあったものを拾い上げた。気付かなかったが、彼女はスポーツバッグを置いていた。「ちょっとあなたに興味があったわたし」
「え?」
スポーツバッグのジッパーが開いている。ぼくはその中身を見てゴクリと唾を飲んだ。何だあれは? 包丁? 包丁だ。スポーツバッグに包丁が入っている。それは変だ。いや、そうなのだけど――
スポーツバッグの中には、何十本もの包丁が入っているようだった。
「それでは日本の『仲間』なあなたにさよならするわたし」
ヘンリエッタさんは『仲間』と言った。『仲間』? 何が? まさか――
「アリーヴェデルチ」
僕が結論を出す前に、ヘンリエッタさんはカフェを出た。入れ違いに、山岸由花子さんがやって来た。
「康一君ッ!」
「あ、や、やぁ、由花子さん……」
「今の女は、何?」
「え」
見られていたのか。ぼくのコップを舐めるという奇妙な行動、それもなのか?
「いや、何か、人違いみたいで」
「許さない」
「ゆ、由花子さん?」
「わたしの康一君のグラスを舐めるなんてッ!」
見られてましたァーッ!
ダッ! と由花子さんが走り出した。ヘンリエッタさんにすぐ追いつく。比喩ではなく、由花子さんの髪の毛が逆立っている。
それが山岸由花子の能力――ラブ・デラックスだ。
「由花子さァんッ! とんでもないッ!」
「この変態メス豚がァッ! 康一君と間接ディープキスしてんじゃないわよッ!」
由花子さんの髪の毛が伸び、ヘンリエッタさんの首に巻きつこうとする!
と――
急に、由花子さんの髪の毛がしおしおと力を失った。ヘンリエッタさんは振り向きもせず、何十本もの包丁が入ったスポーツバッグを持ったままスタスタ行ってしまう。
「由花子さん!」
ぼくは彼女の元へ走る。由花子さんは不思議そうにヘンリエッタさんの後ろ姿を見送っている。
「わからないわ、康一君」由花子さんは困った顔でぼくを見る。「あの女の頚椎を締め折ってやろうと思っていたのだけど」
ちょっと待ってェーッ! 山岸由花子ォーッ! そんなこと思っていたのか!?
「由花子さんッ! 駄目ですよ、スタンド能力を悪用するのは、例え由花子さんでも許しません!」
「違うのよ、康一君。あの女に近付いたら、その、なくなったのよ」
「何がですか?」
「あれよ、ほら、ド忘れしたわ、その、締め折って死に至らしめたるって気持ち、何とか『つい』」
「『殺意』ですか?」
「そうッ! それッ!」そんなもの抱くな!「『さ』の字が思い出せなかったのだわ。ヘンな話」
ヘンなのは、あなただ。
だけど、それ以上に――
ヘンリエッタ・レディボーゲンはヘンだった。
彼女はぼくを日本の『仲間』と言った。
「まさか、ね」
そしてぼくは後に、吉良吉影の事件以来、久し振りに思い出すことになる。
『スタンド使いはスタンド使いといずれひかれ合う』というルールを。
2
杜王駅から車で約15分。杜王グランドホテルから北へ広がる海岸線には、年間20万人から30万人の環境客が訪れる、侍の時代から続く別荘・リゾート地帯がある。その勾当台という場所に、一つの渋めの数奇屋住宅があった。
殺人鬼・吉良吉影の家である。
だが吉良吉影は世間から殺人鬼だと認められてはいない。四十八人の手が綺麗な女性を殺した殺人鬼だが、小学校からD学院文学部卒業まで、目立たないように目立たないように生きてきていた彼がそういう風に思われているわけがない。唯一、彼が就職したカメユーの社員の話で、彼が行方不明になる直前、血だらけで、左手首を失っており、やや錯乱しているようだったという常軌を逸したものがある。その後、救急車の下敷きになって事故死となるまで、吉良吉影の行動は社会的には不明となる。
吉良吉影はスタンド使いだった。スタンドとは、超能力がヴィジョンとして表れたものである。それはスタンド使い本体の精神によって激しくヴィジョンが変わる。スタンド使いしか見ることはできないが、甲冑を身に纏った騎士のようなものや、鳥の頭をした筋肉質の人間などに加え、人型ですらないものもある。サメのようなもの、身に纏うスーツのようなもの、無数の茨、他には普通の人間にも見える船や車の形になるものもある。吉良のスタンドは、猫とドクロの要素がある人型のスタンドだ。
吉良は他のスタンド使いに追い詰められ、結果として自分の左手首を失いかけた。しかし、美容エステサロン『シンデレラ』のオーナー、辻彩のスタンド能力により、川尻浩作の顔と指紋を手に入れた。これにより、しばらく吉良はただ静かに暮らしていたのだ。
その間、吉良は人を殺すことが1回しかなかった。吉良のスタンドの主な能力は触れたものを爆弾にすること。これによって手が綺麗な女性を爆死させ、手首だけを持ち帰ろうとした。
それを川尻浩作の息子、川尻早人に見られてしまう。そこから正体がばれ、吉良は東方仗助などの杜王町を守るスタンド使いに倒され――
「くそッ、どうも上手くまとまらない。あの仗助のことを考えるとムカッ腹が立ってきたぞ」
漫画家・岸辺露伴は考えるのをやめた。週刊少年ジャンプに『ピンク・ダークの少年』を連載する売れっ子漫画家だが、その正体はスタンド使い。ヘブンズドアーと名付けたスタンド能力を持っている。ある理由から、殺人鬼・吉良吉影の正体を探すことになり、吉良と町(その表現が一番相応しい)の戦いでも活躍していた。
「取材にやって来たのはいいが、どうも自分に関係しすぎることだと気が乗らないな」
リアリティ追求のためにはクモを食べることも厭わないスーパー漫画家だが、実は露伴は吉良に幼馴染みの女性を殺害されている。杉本鈴美。露伴が4歳の時、鈴美は窓から露伴を逃がし、自分は吉良の餌食になった。彼女は死後、幽霊となって露伴に吉良探しを懇願する。露伴はそのため、町を守るスタンド使いとして孤軍奮闘する。露伴はすべてが終わったら、その戦いを題材に漫画を描こうと思っていたのだが、鈴美のことが漫画制作に無意識にブレーキをかけていることを露伴は気付いていない。
「フン、見たところ普通の住宅だな。武家時代の名残はあるが、殺人鬼が住んでいたとは思えない」資料によると、吉良の家は代々侍だったそうだが、吉良の祖父の代で落ちぶれたようだ。「だけど勝手に入るのは流石にまずいかな」
露伴はメモ帳をポケットにしまい、カメラを構えて数枚写真を撮った。
「写真か」
露伴は思い出す。一度仗助たちが吉良の情報を得るためにこの屋敷にやってきた時、幽霊となった吉良の父親に襲われた。殺人鬼でも人の子である。吉良の父親は吉良吉影を守ろうとした。吉影を追い詰める人間を殺そうとした。
幽霊の存在を疑う人には、杉本鈴美や吉良の父親は信じがたい話だが、スタンドが精神のエネルギーである以上、幽霊という魂のエネルギーの存在も考えられるのではないだろうか。
しかも吉良の父親は、吉良と同じくスタンドを身につけていた。スタンドの名前はアトム・ハート・ファーザー、自分が写った写真を支配する能力を持ち、写真の中に映っている人間を写真の中で攻撃すると、それは避けられない破壊となるのだ。
「こうやって写真を撮っていると、吉良の幽霊でも映るかもしれないなァ~。それならそれで訊いて見たいことがある。死後の世界ってのは、どんな気分なんだろうな」
カシャリパシャリ、と写真を撮っていく。裕福な家庭に見える。近所の人の話に拠れば、仲の良い家族だったそうだ。
吉良がスタンド能力を身につけたと思われる理由は、1つの矢である。
今から十数年前、吉良の父親・吉良吉廣はエジプトから来た老婆エンヤからその矢を手に入れた。その矢で人間を貫くと、矢が選んだ者であるなら、スタンド能力がその人間に生まれる。そうでない場合、魂が傷付けられ、死ぬ。
「上手く行けばスタンド能力を手に入れられる。だけどスタンド使いを矢で射抜くとどうなるんだろうか」
疑問を抱きながら、露伴は吉良の家をカメラに収めていく。
余談だが、吉良は絶体絶命の危機の時、スタンド使いであるにもかかわらず矢に選ばれて貫かれた。その結果、吉良のキラークィーンというスタンドに、『触ったものを爆弾にする』以外の新しい能力が生まれたのだった。
しかし、露伴は吉良の父親が矢を持っているのは仗助たち町のスタンド使いから聞いて知っていても、その他の経緯を知らない。他に露伴が知っていることといえば、一度吉良が『成長した』ということだけだ。これは、川尻浩作の息子である早人の記憶を読んだ結果である――露伴のスタンド能力によって。
「ン!?」
露伴はカメラを下ろした。一瞬だが、何か動くものが見えた。家の外にではない。
中だ。
「……誰かいるのかな? いや、吉良の両親は亡くなっているし、他に身内が居たという話は聞かないな」
見間違いだろうか。露伴は考え、家に近寄った。壁にぴったり張り付くと、肩越しにそろそろと窓の中を覗き込んだ。
純和風の室内が見えた。何の変哲もない家具配置。本当に、吉良吉影はただ静かに暮らしたいだけというのがわかった。
「…………」
部屋から廊下が見えた。何かが見える。目を凝らすと、微かな影が廊下に落ちていた。そしてそれは露伴の視界から消えた。
つまり、何かが動いたのである。
「泥棒か?」
露伴は壁に沿って移動する。自分にはスタンドがある。だからただのならず者なら素手でも立ち向かえる。猫のように身をかがめ、ゆっくりと音を立てないように別の窓に向かう。もしも自分が写真を撮っているのに気付かれているなら、意味のない行動だが。
「問題は、ただの泥棒じゃなかった時だ」
露伴は角を曲がった。
勝手口の扉が、開け放されていた。それもそのはず、ドアノブが不自然な方向に折れ曲がり、戸締りの役割を果たしていなかったのだ。
泥棒なら、錠前を破るか窓ガラスを切って静かに侵入するだろう。取材で仕入れた悪い知識だ。だが、この扉はそうではない。ただ単に邪魔だから壊した。それ以外の意思が感じられなかった。
「物凄く頭の悪いプロレスラーか?」
露伴はドアノブに触れる。そんなに堅固な作りでもない。だが、バカ力を振りたくなるほど魅力的でもない。
いたずらか、それとも――
スタンド使いとスタンド使いはひかれ合うのだろうか。
「……康一君を呼ぶべきか?」
露伴は、友人の高校生のスタンド使いを思い浮かべた。仗助でないのは、一度仗助と戦ってから関わるとろくなことがないとわかったからだ。そもそも、広瀬康一がいるから仗助と平和にやっていけるようなものである。
露伴が一瞬逡巡した時、吉良の家の中から何かが壊れる音がした。ガラスだ。ガラスが割れる音がした。
「何をやっているんだ?」
こうなると中が気になって気になって仕方がない。漫画家であること、それには好奇心を失わないことが重要だ。好奇心とは、自分が知らない世界に対する欲求なのである。この世界のすべてを経験できれば、手塚治虫以上に漫画の神様になれるだろう。
それが自分のスタンド名天国への扉にも繋がるだろう。
「行くしかないッ」
露伴は破壊された勝手口をくぐった。
「やはり、入って来たな」
「!?」
露伴の背中を悪寒が走った。
目の前には、背が高く痩身の、黒いスーツ姿の男が居た。幽鬼のような形相で、黒い髪が鋭く肩まで伸び散らかっていた。
それ以上に露伴を警戒させたものは、天井に張り付いている異形のものだった。
第一印象は、ぬいぐるみだった。茶色い布を人の形に切り、適当に綿を詰めて粗雑に縫う。釘や針を刺して相手を呪うのに使いたくなるぬいぐるみ人形だ。それが蛇腹の管で包まれ、更に合板のようなもので二の腕や胸や太腿が覆われていた。
「見えるなら、更に『やはり』だな」
黒いスーツの男が口を開いた。ぬいぐるみ人形は、真珠のように丸く瞳のない目を輝かせ、「ヒーッ、ヒーッ」と息を漏らしている。まるでホラー映画だ。
「こいつがお前のスタンドなのか?」
露伴はすべてを理解していた。目の前にいる男、そいつがどんな人間であれ――
そいつは敵だ。
「それが俺のスタンド、アークエネミーだ」男はつまらなさそうに言った。「暇があるなら、それに相手をしてもらえ」
男が露伴に背を向けようとした。
「ヘブンズドアーッ!」
その時、露伴は空中に絵を描いた。自分が連載している漫画『ピンク・ダークの少年』の主人公の絵だ。この絵こそが露伴のスタンド能力である。ぬいぐるみ人形の眼前にその絵が飛んでいく。
「ぼくのスタンド、ヘブンズドアーを見たヤツは本になるッ!」
満を持しての先制攻撃、のはずだった。
「なるほど、それが俺の偉大な敵か」
男は、本当につまらなさそうに言った。
バラァッ! と腕が地面に落ちた。切断されて落ちたのではない。皮膚がページをめくるようにめくれいや、まさにページとなってめくれて行き、めくれた部分には文字や画像が現れた。
つまり、本になっているのだ。
しかし問題は、その腕が岸辺露伴本人のものだということだ。
「何ィッー!?」
露伴は転倒した。脚も本になっていき、ページがめくれて体を支える力を失ってしまった。ペリペリと自分の顔が剥がれるような感触。それは自分の顔も本になっているのだった。
「馬鹿なッ!? ぼくが、ぼくにヘブンズドアーが発動しているッ!?」
倒れたまま見上げると、ぬいぐるみ人形はいなかった。露伴は人間の形を保っている左手を動かし、絵を描こうとした。
「ヘブンズ――」
スーツの男が、本になった露伴の脚を持っていた。
「俺の偉大な敵よ。お前の能力は見破った」そして男は露伴の方に脚を投げ落としてきた。「本というものは、余白がメモになる。ミステリを読むか、俺の偉大なる敵よ。一度余白に『犯人はゴリ沢? 爪が伸びていたのはゴリ沢だけだから』と書いてあった。最後まで読み終えると、本当にゴリ沢が犯人だったよ。興冷めだ。恐ろしくな。何が言いたいかと言うと、本に書き込むことは、その本の価値を貶めることにしかならないということだ」
露伴は滝のような汗をかいていた。脚の余白部分を見る。
『幾何野正和を攻撃することはできない』
「うわああああーッ!? そんな、そんなッ!」
「幾何野正和、それが俺の名前だ、俺の偉大なる敵よ。多分お前もこうやって楽しんだんだろう?」
幾何野と名乗った男は、露伴という本を読み始めた。
「お前は漫画家なのか、俺の偉大なる敵よ。だが、生憎俺は漫画は読まない。サインをもらっておくべきなのか悩むぞ」
「うああ……」
露伴の右手が勝手にメモ帳を取り出し、自分の名前を書いた。自分の体に『幾何野正和にサインをやる』と書き込まれていた。
「流石漫画家と言ったところか、俺の偉大なる敵よ。上手いな」
幾何野はメモ帳を破ると自分のスーツのポケットに入れた。それから露伴を読み始めた。
「ああ、なるほど。ふむ、そうか、そうなのか」
声を出しては本になった露伴の記憶を読んでいく幾何野。ヘブンズドアーの能力は、その人間の体験を包み隠さず本にして現すのだ。
途中で幾何野の目の動きが止まった。露伴の顔のページを凝視している。
「これだ、こういうのが俺の欲しかった記憶だよ俺の偉大なる敵。重要だ」
幾何野は露伴のメモ帳と鉛筆を拾い上げ、何か書こうとした。しかし、ふと何かに気付くと動きを止めた。
「本なら、ページを破って行く輩もいるな。図書館で出くわすと背骨が折れるまで殴りたいほどだが、まさか俺がそういうことをするとは思わなかったよ、俺の偉大なる敵」
「お、お前……」
幾何野は露伴の顔の1ページを掴むと、そのまま強引に破りとった。
「便利だな、本当に。『当』に『本』と書いて本当だな」
それが岸辺露伴が意識を失う前に聞いた、最後の言葉だった。
3
人間が引き出す精神的なエネルギー、スタンド。その語源は、『そばに立つ者』や『立ち向うもの』など色々ある。だけどぼく、広瀬康一は習いたての英単語の知識から、『可能性(を持つ)』ということを提案してみたい。
『可能性』とは、未来のことだ。このスタンドを持つことで、新しい未来が広がる。人間が強い意志を持って進んでいく。そういうヴィジョンがぼくには見えるのだ。
スタンドは守護霊のようなものと言われるが、本当はその人間の精神のヴィジョンだ。だから色々な姿がある。スタンドはスタンド使いにしか見えないけれど、もしもぼくのスタンドが見えるなら、とりあえずローラースケートを履いた頭でっかちのトカゲみたいに長い尻尾を持った生物が見えるだろう。
この世界に、ぼくらには見えないルールがあるように、スタンドにもルールがある。
1.スタンドは、スタンド使いの意思で動き、動かされる。
2.スタンドはスタンドでしか攻撃できない。肉体ではなく、精神の戦いなのだ。
3.スタンドが傷付けば、そのスタンド使い=本体も同じような場所に傷を受ける。心が痛みを現実にする。
4.スタンド使いが死ねば、スタンドは消滅する。本体の、スタンドを操る意思が消える。
5.スタンドが消滅すれば、逆にスタンド使いも死ぬ。精神と肉体は密接な関係がある。
6.スタンドのエネルギー・力の強さは、本体からスタンドまでの距離に反比例する。本体とスタンドの距離が近ければ近いほど、パワーはあるし正確性もスピードもあるが、2つの距離が遠くなれば遠くなるほど、動きのスピードも遅く、大雑把な動きになっていく。
7.つまり、スタンド使いには、「うまい」「ヘタ」がある。個人の精神力の問題だからだ。
8.スタンドは遺伝する。精神が、誇り高き血統に依存することもあるからだ。
9.スタンドは基本的に1人につき『1能力』である。人間の精神は、可能性はあるが多様性は難しい。
10.スタンドは、その本体の精神次第で成長する。
ぼくは、ある矢に刺されてスタンドを得た。その矢の起源は不明だ。多分、ぼくが生まれるよりもずっとずっと前から存在していたんだろう。
それは、地球が存在するよりも前に宇宙に存在していた、生命という意志の生み出したものだったのかもしれない。
現代の物理学では、何もない空間に突然、素粒子が生まれることが証明されているらしい。その素粒子は、エネルギーになって引力や重力を生み出すという。
何もない所から、力が生まれるということもあるのだ。
その、無から有が生まれる『可能性』こそ、スタンドなんじゃあないだろうか。
「康一~、オメー頭いいのか悪いのかわからねーけど、もっともらしいこと考えるよなァ~。なぁ、億泰?」
「ん? あ、ああ、そうだな(オレ全然ワカンネーけどな)」
ぼくの友人、東方仗助君が虹村億泰君に言う。2人とも、ぼくと同じ高校一年生だとは思えないほど背が高く、見た目は不良だ。仗助君は巨大なリーゼントだし、億泰君は頭の両サイドに剃り込みが入っている。それぞれ派手な学ランを着ているから、百メートル先からでも誰かわかる。
「しかしよォ~、音石明が持ってた矢は回収して破壊したし、吉良の親父はブッ飛ばしてやったから、その矢ももうねーだろーなァ~」仗助君が空を見上げて言う。
音石明もスタンド使いだった。実は億泰君のお兄さん、形兆さんを殺して矢を奪った犯人だった。その矢は、形兆さんがエジプトから来たエンヤ婆という人から手に入れたものだ。吉良の親父とは、写真の中に入る能力を持ったスタンド使いで、殺人鬼・吉良吉影の父親だ。
「吉良吉影も事故で死んだから、平和になるかなぁ」
「でもね、億泰君、さっき変なことがあったんだよ」
「お、そう言えば康一。お前今日あの山岸由花子とデートだったんじゃないのか?」
「それがね……」
ぼくは、さっきカフェ・ドゥ・マゴで会った変な女性について2人に話した。ぼくのコップを舐め、スポーツバッグに何十本も包丁を入れていた、ロシア人のように白い肌の綺麗なイタリア人、ヘンリエッタ・レディボーゲンについて。そしてヘンリエッタさんに怒った由花子さんが、スタンド能力で攻撃しようとしたところ、急に由花子さんのテンションが下がってしまったことを。
「でもよォ~、由花子はプッツンしてるから、躁鬱が激しかっただけなんじゃあないか?」
「うーん、そうだけど」で、結局由花子さんはテンションが下がったまま、狐につままれたような顔で帰ってしまった。「何か奇妙なことを言ってたんだよ仗助君」
「何だ何だ?」億泰君は缶入りのカルピスウォーターを飲みながら、興味津々の顔だった。
「『殺意』をド忘れしたって言ってた」
「『殺意』だぁ?」億泰君は顔をしかめた。
「うん。正確に言うと、『さ』の字を忘れたんだって。その、ヘンリエッタさんの首を絞めようとした時」
ムチャクチャだな、と仗助君はあきれた。ぼくもそう思う。「そのヘンリエッタ? お前を『仲間』って言ったのか?」
「うん、『日本の仲間』って言ってた」
「『仲間』か……なんだかよォ~、その女、スタンド使いじゃあね~だろーな?」
仗助君がドキリとすることを言う。
「おいおい仗助、そんなことあるか?」
「『スタンド使いとスタンド使いはひかれ合う』って言うだろ? まさか、とは思うけどな」
「でも仗助君、それだと」ぼくはゴクリと唾を飲み込んだ。「ヘンリエッタさんには、仲間がいるってことだよね?」
「何でだよ?」
「億泰君、ヘンリエッタさんは『日本の仲間』って言ってたんだよ。じゃあ、日本じゃない仲間がいるってことじゃ……」
「ロシア人みたいなイタリア人が、他にも杜王町にいたら目立つだろ?」
「美人なのか?」
「真面目にしてよ、億泰君」ぼくは呆れた。「あ、別にイタリア人に限らないのか。『(この)日本の仲間』って意味だったら、他の国の日本人でもいいんじゃないかなぁ」
「だったら問題はよォ~」仗助君が真剣な顔になった。「そいつが杜王町にとって『敵』なのかってことだよな」
仗助君は、この町を守る人間の顔になった。
それは、黄金のように輝いて見えた。
ここからは、後でぼくが億泰君から聞いた話をまとめたものだ。だから所々で、その場面に居合わせなかったぼくの感想が入っているけど気にしないで欲しい。まるで自分が死んだ後、自分の死体がどこに隠されるのか死体自身が記述しているようだ。
虹村億泰君には、1人の家族がいる。それは億泰君のお父さんだ。
だけどそのお父さんは、普通の体じゃない。
小さな怪獣を、熱で溶かして固めたような見た目だ。肌の色も、人間のものではない。
それは何故かと言うと、億泰君のお父さんが『悪』のスタンド使いだったからだ。
1989年、つまり今から10年前。億泰君と形兆さんとお父さんは東京に住んでいた。お母さんは病気で亡くなっていたらしい。しかも、お父さんの会社は上手く行かなくなり、膨大な借金を抱えていた。
だけど、ある時から急にお父さんのところにお金が入るようになった。時には宝石や貴金属の時もあった。お父さんは働いていないのに。
その理由は、後に明らかになる。お父さんはスタンド使いであり、エジプトにいたDIOという『悪』のスタンド使いに操られていたらしい。DIOは当時、世界中からスタンド能力がある人間を探していたらしい。
そのDIOの死後、億泰君のお父さんに悲劇が起こった。DIOは自分の細胞を、配下にしたスタンド使いに埋め込んで、裏切らないようにしていたらしい。DIOの不死身の細胞は(DIOは、信じられない話だが吸血鬼だったらしい)、DIOが朝日に当たって塵になった後、暴走してしまって億泰君のお父さんの体を蝕んだ。
そして億泰君のお父さんは、体中がどろどろの粘土細工みたいになり、記憶もあやふやになって、思い出はあっても現在という時間を認識できないまま億泰君と暮らしている。億泰君は、お父さんが安泰ならそれでもいいと思っている。形兆さんが殺されてしまってからは、唯一の肉親なのだ。
そしてぼくらと別れた億泰君は、いつものように家に帰った。
「ただいま~っと。オヤジ、元気かァ~?」
億泰君は鞄をソファに放り投げ、冷蔵庫に向かった。さっきカルピスウォーターを飲んだばかりだというのに、またジュースを探して紙パックから直接飲もうとした。
「ゲ!?」
億泰君は紙パックを取り落とした。見えなかった面に、無数の小さい虫がくっついていたのだ。それはウジのようで、茶色っぽい小さな小さな虫がウネウネと蠢いていた。
「ウゲェー、気持ち悪いッ! 賞味期限切れてたかァー?」
そういうわけでもないみたいだった。億泰君は不思議に思いながらも、それを空中に投げ上げた。
感性の法則が働き始めた時、億泰君の背後に人影が現れた。それは胸に『¥』と『$』のマークが書いてあり、肩にトゲトゲが付いたロボットのようだった。目はサーチライトのようだ。首元には学ランの襟のお化けのようなものがあり、頭部の周囲4分の3を包んでいた。
億泰君のスタンド、ザ・ハンドだった。その能力は、右手で触ったものを削り取ることだ。
「よっと」
ガオン、とザ・ハンドの右手が弧を描いた。その軌道上にあった紙パックは消滅した。
「自分で言うのもなんだけどよォ~、オレのザ・ハンドが削り取ったものってどこに行っちまんだろォ~なァ~。ま、オレ頭ワルいから考えても仕方ねーか」
代わりに何か飲もうかな、と億泰君は冷蔵庫の中を見た。さっきは気付かなかったのだが、その時億泰君は大変なことに気が付いた。
冷蔵庫の中に、紙パックに付いていた虫と同じものが、びっしり付いていたのだ。
「うぐっ、な、何だよ……」
そしてその虫は、ハムやら野菜やらを食い荒らしていた。億泰君は冷蔵庫を閉めた。逃げるようにその場を離れる。
「オヤジィッ! 冷蔵庫に虫がわいてるぞッ!」
億泰君は階段を上り、お父さんがいる部屋に向かった。冷蔵庫が壊れて何かが腐った。それくらいにしか、億泰君は考えていなかったのだと思う。
「オヤジ? いるのか?」
階段を上りきった所で、億泰君は足を止めた。
「え?」
屋根裏の部屋。扉が少し開いている。
その隙間から、怪物の腕のようなものが見えた。
億泰君のお父さんの腕だ。
「オヤジ? 寝てるのか?」
億泰君はドアを開けた。
ゴロリ、と腕が転がった。
そしてそのまま、腕だけが階段を転がり落ちていった。
千切れた腕が。
「オヤジ!?」
億泰君は一気に部屋に踏み込んだ。億泰君のお父さんの体は、DIOの細胞のせいで不死身になっている。腕が取れても、頭が弾けても、すぐに再生する。その代わりもろくなっているので、腕が千切れるくらいじゃ億泰君は驚かなかった。
だけど今日は、何かただならぬほどヤバいことを、億泰君は感じ取っていたのだと思う。
部屋の中が億泰君の視界に飛び込んできた。
白い学ランの男。その髪の毛はモヒカンヘアーなのだけど、長いポニーテールもあった。白い学ランの下には、黒いタンクトップと、サスペンダーが見えた。
「お前、驚愕するほど頭が悪いだろ? フツー、父親の腕が転がってきたら警戒するだろうが。それとも、これくらいは日常茶飯事なのか?」
男の足元には、バラバラになった億泰君のお父さんの体があった。それは微かに動き、再生しようとしている。
「こいつ、何回攻撃しても死なない。俺のスタンドの方が先に参っちまうぜ。驚愕だ。でも、ほら、バラバラだろ? 手も足もでない、なんつって」
「オヤジィィィィッッッッ!」
ザ・ハンドが億泰君の背後から飛び出した。右腕を大きく振りかぶっている。一気に男を削り取って終わらせる気だ。
「それがお前のスタンドかッ! 驚愕、驚愕だッ!」
ガオン、と右手が振り下ろされる。白の学ランはひらりとよけた。
「だが、かわせない動きじゃないねェー。その点もまた、驚愕と言ったところか」
「いや、かわした方がまずかったぜ」
グィン、と白い学ランの体が引っ張られた。
削り取られた空間自体が閉じようとする。その力で、白い学ランは億泰君の方に引き寄せられたのだ。
「一撃で終わってた方が、ラクだったはずだぜェ~」
「お前、この能力……正に驚愕ッ!」
ザ・ハンドが左のボディーブローを放った。ガギィッという衝突音。
白い学ランのスタンドが、しっかりガードしていた。
まるでオパールをはめ込んだブレスレットのようなボディのスタンドだった。顔は指サックのような形。そこにオーブントースターのタイマーのダイヤルのような目が2つ。嘘を吐いたピノキオのように長く細い鼻。口は耳まで避けていて、眩しいほど白い歯がむき出しに鳴っている。
「何だその気味の悪いスタンドはよォ~?」
ザ・ハンドが2撃目を放とうとした。白い学ランのスタンドは、蹴りを入れてザ・ハンドとの距離を取った。
「その右手、驚愕だが、何なんだ? 見えない糸で俺がひきずられたみてーだった。引力でも操るのか?」
「そんなに知りたきゃよォ~、テメェで食らってみろ!」
「驚愕する! 却下だ!」
ザ・ハンドが右手で攻撃する。その手目掛けて白い学ランは蹴りを放った。
「その脚を削り取ってやる!」
そこで億泰君は気付く。ただの蹴りじゃないことを。
白学ランは、億泰君のお父さんの体ごと蹴りを放っていた。
「うわああああ、オヤジィッ!?」
「当然、驚愕して止まるわな、攻撃が」
ザ・ハンドが億泰君のお父さんの体を受け止めた。お父さんは億泰君を見たが、ボゥッとしているようだった。もう腕が生えていた。
「そこで、更に更に更に更に驚愕して欲しいィィィィー!」
ピノキオのようなスタンドが、右ストレートをザ・ハンドに打ち込んだ。直前で左腕でガードするザ・ハンド。すぐにピノキオ鼻は距離を取った。
「何だ、今の?」億泰君がお父さんを床に下ろした。「今のが攻撃か? 猫じゃらしで叩かれるより痛くないぜ」
「すぐに驚愕することになる」
「じゃあその前に死ねッ!」
億泰君が動いた。
そこに、ボト、ボトッと何かが落ちた。
虫だった。冷蔵庫にいた虫と同じ虫だ。
億泰君は天井を見上げた。
「虫? さっきからいったい?」
「……驚愕だな。そっちじゃあないぜ」
「え?」
ボトリボトリボタァッと虫が落ちた。
億泰君の左腕の真下に落ちる。
「何だ?」
億泰君は、左の掌を天井に向けた。
その左腕の内側に、小さな穴がたくさん開いていた。
「何だってェェェェッ!?」
痛みはなかったらしい。ただ、十個前後の穴が開いていた。その中を、何かが動いている。
虫だった。
腕の中から、虫が出てきた。
「この虫はッ!?」
「それが俺、波照間照秋の驚愕すべきスタンド、スリップノットの能力だ」
「うぉぉっ!」
億泰君は腕を振った。だけどそんなことじゃ虫は出てこなかった。億泰君の左腕の肉をかじり、かじり、かじり、ようやく這い出てきた。
「驚愕する能力だろう? 卵を植えつけた。食らうしか能がない虫だが、まぁ、愛でてやってくれ」
「ダボがァッ!」
ザ・ハンドが波照間を狙う。
「……驚愕しないのか? 食らうしか能がないと言っただろ?」
床に落ちた虫が、億泰君のつま先をかじっていた。
やっぱり、痛みはなかった。
「!?」
億泰君は足を振ったが、虫は億泰君の足の裏まで穴を掘るようにかじりきるまで離れなかった。
「ザ・ハンド!」
床に落ちた虫を削り取る。
「ハッ!?」
だけど既にスリップノットが億泰君を見下ろしていた。
「さて、驚愕のエンディングだ」
スリップノットが、優しく撫でるように億泰君の頭を触れた。
「てめぇッ!」
億泰君は左腕でアッパーを放った。波照間がさっとよける。
「驚愕するほど意味がない。スリップノットの攻撃は完了している」
ぐらり、と億泰君の左腕が揺れた。
そして、穴が開いた部分から、ボキリと折れてしまった。
「馬鹿なッ!?」
「右腕でなくてよかったと、驚愕しつつ安心しろ。で、そろそろ頭を心配した方がいい」
「あ」
億泰君の右頭部に、小さな穴が開き始めた。
「脳を食らわれても生きていたら、驚愕だがな」
「うおぉぉぉぉッッッッ!?」
億泰君は倒れた。転がっているお父さんと目が合った。
「これで終わりか。驚愕するほど簡単だった。後は、あれを探すだけだ」
ボロボロと虫がこぼれてきた。クソ、これで死ぬのか。億泰君は仗助君やぼくのことを考えただろう。
でも、それ以上に――
億泰君のことを考える人物が間近にいたのだ。
「オ、オクヤスゥ……」
億泰君は声のした方を見る。
「オクヤス……マ……」
お父さんと、もう一度目が合った。
「オクヤス……マモル……スタンド」
「……オヤジ……」
「マモルゥゥゥゥ」
「うるさいぞッ! 歯向かうのが驚愕だなァッ! 食らえスリップノット!」
ズシャッ、と。
今度は重く、強く、億泰君の顔面にスリップノットの拳が炸裂した。
ポカァ、と穴が開いた。
「オクヤスゥゥゥゥッ!」
お父さんが、吼えた。
ズッッギューン、という生命の迸る音がした。
億泰君の穴が塞がった。
「な、何だと? これは、驚愕か……?」
億泰君のお父さんのそばに、立ちあがる者がいた。
それは、今目前の敵に立ち向かう意志を持つ者だった。
「虹村百十!? 驚愕、それがお前の……」
ラムシュタイン。
それが億泰君のお父さん、虹村百十の立ち向かう者の名前だった。
4
ドドドドド、ゴゴゴゴゴ――
精神がきしむ音がした。
虹村億泰、波照間照秋、そして虹村百十。
ザ・ハンド、スリップノット、そしてラムシュタイン。
三者三様のスタンドを従えて、凍りついたように緊張感で固まっていた。
最初に口を開いた者は、虹村親子に害をなすものだった。
「そ、そのスタンド」波照間は百十のスタンドを指差した。「驚愕だ。出せるのか、貴様。スタンドを……」
百十の背後霊のように、それは奇怪なポーズで立っていた。右手は肘を曲げて掌を自分に向け、左腕を頭の上に置いて空を掴むように左手をすぼめている。内股になって背中をそらし、百十のスタンド、ラムシュタインは立っていた。
だがそれは奇妙なオブジェクトだった。
ドロドロの肉塊を積み上げたような体。百十自身がDIOの邪悪な細胞の暴走でドロドロになっているように、そのスタンド自体も煮過ぎたカレーとミートボールのようだった。
そしてその頭は、くちばしを切り詰めた翼竜のようだったが、上下が逆さまだった。
「オヤジィ……」
億泰はさっきまで小さな穴がたくさん開いていた自分の頭部に手をやった。最早傷はなかった。だが億泰の頭の周りの床で虫がのたうちまわっているを見ると、ザ・ハンドの右腕で空間ごと削り取った。
「オヤジ……どうやってオレの穴を埋めたんだ?」
もちろん百十は答えない。彼の発声器官は、既に人間としての役割を終えている。
それでもなお――
「オクヤスゥ……」
父親として、子供の名前を呼ぶことが可能だった。
ギュルンッ、とラムシュタインが消えた。
「スタンドをしまったのか!?」波照間が焦りだした。「驚愕するしかないなッ! スリップノット、植えつけろッ!」
ダイヤルの目、耳まで裂けた口、ピノキオのような鼻を持つスタンドが百十に殴りかかった。
「駄目だッ!」
倒れていた億泰は起き上がろうとした。だが転倒する。そう言えば、さっきつま先を虫に食われていた。足の先が半分くらいになっていて、億泰は目を疑った。驚異的なスピードで食べている。
グォンッ! とスリップノットの拳が振られた。百十にブチ当たる。
その時百十の前にラムシュタインが現れた。
正確には、百十のの体の中から、ラムシュタインが生えていた。
「何だッ!?」
波照間が驚愕する暇もなく、スリップノットの拳がラムシュタインにめり込んだ。
予定では、そのまま虫の卵が植えつけられ、ラムシュタインの体に無数の穴を開けて蝕むところだ。
波照間のスタンド、スリップノットの虫は、何でも食らう。例えそれがスタンドであっても。
卵がラムシュタインの中に侵入した。
「驚愕したが、終わりだな」
「オヤジィィィィッッッッ!!」
億泰は、虫に食われて折れた左腕を軸にして立ち上がった。
「驚愕させるなッ! トロいぞキサマッ!」
波照間が億泰を攻撃しようとした。
ポンッ、という音がした。
波照間は振り向いた。
「きょ……」
驚愕的、と言いかけて波照間は絶句した。
自分の虫の卵が、ラムシュタインの体から、卵のまま飛び出していた。
「スリップノット!?」
波照間のスタンドが動く。百十の穴が塞がる。同じ所に攻撃が加えられそうになった時――
百十の体が溶け出した。
「食らってるのか!?」億泰は悲鳴に近い叫びを上げた。
溶けた百十の体は、原形を留めていない。そこを紙一重でスリップノットの拳が通過する。
「違う、溶けたんじゃないな、驚愕することだが」波照間が気付いた。「体の形を変えたのか」
百十の溶けた体が戻った。
「虹村百十、驚愕しそうだがキサマ……」そう言う波照間は既に驚愕していた。「細胞を操るスタンドかッ!?」
「イエース」
百十が言った。そして彼の腕は伸び、億泰に届く。
「な、何だ? オヤジ?」
伸びた手の先に、翼竜の上下逆さまの顔が現れた。細かい歯が幾つも並んだ口を大きく開けている。
「こ、怖ェよ!」
億泰の足に百十の腕が触れた。その途端、なくなっている足の先が、ボゴンと膨らんだ。
「げぇっ!? 空気を入れられたカエルみてーだ!」
その風船のような億泰の肉が、次第に足の形になり――
億泰の足は再生した。
「そうか、こうやってオレの穴を(でも頭に穴あいて前より悪くなってねーかな?)」
「驚愕することだが」波照間が青ざめた顔をしている。「虹村百十。キサマがDIO様の肉の芽に暴走されても死ななかったのは、その細胞を操るスタンドがあったためか」
「DIO? いや、DIO『様』って言ったのか? オマエ」
億泰は立ち上がった。背後にザ・ハンドも現れる。
「オマエDIOの何なんだ?」
「知っているのは驚愕だが」波照間が上半身を左右にくねらせ、両腕を頭の後ろでクロスさせて立った。「『様』を付けないと後悔するぞッ!」
スリップノットが億泰に挑んだ。
「ムター……ムター……」
百十が呪文のように唱えた。床に落ちていた億泰の左腕が波打った。
スリップノットが両腕で同時に突きを放った。
その軌道上に、増殖した細胞の勢いで跳ね上がった億泰の左腕が飛ぶ。
「!?」
驚愕した波照間は一瞬躊躇したようだった。スリップノットの突きは億泰の左腕に当たった。もちろんスリップノットの能力で卵が植えつけられるが、細胞が膨張して外に卵を押し出した。
「オヤジはよォ~、オレが小さい頃金がなくてオフクロが死んで会社が倒産して何もかも上手く行かなくなってオレを殴ったりしてたんだ」
百十は、輝きのないドロンとした目で億泰を見ている。
「だけどよォ~、DIOとかいうヤツのせいでこんな風になっちまった。何考えてるのかわからねーし、何が言いたいかもわからねー」
百十は立ち上がっている。何かを守るように、そばに落ちていた空の木箱を背にした。木箱の上には一枚の写真が乗っている。ソファーに座った四人の男女。女性は穏やかに、男性は満足そうに、少年は楽しそうに笑っている。幼児は、男性の膝の上でバットを抱いてレーシングカーのおもちゃに夢中になっている。
在りし日の虹村家の写真だった。男性は百十自身。幼児は億泰だ。この後億泰の母親は病死し、百十は肉の芽が暴走して異形化し、億泰の兄の形兆は矢を持っていたために殺されて矢を奪われる。
百十は、その写真をかばうように隠している。
「オヤジが、『今』ってモンをわかってるのかもわからねー。多分、記憶とかは肉の芽が暴走する前で止まってるんだろう。多分そうだ。オレ馬鹿だからわからねーけど。頭悪いからわからねーけど。でもよォ~」
波照間は何もできなくなっている。
「オレを殴っていたのは、肉の芽が暴走する直前の父親だ。そんな父親が、あの父親が、オレを守ってくれるっていうのはッ!」
億泰の目に涙が浮かんでいた。
「オレを別に嫌いじゃなかったってことだよなァ~ッ!」
「虹村億泰ッ!」
「ザ・ハンド!」
波照間と億泰が同時に動いた。しかしスリップノットが吹っ飛んだ。それの攻撃の前に、ザ・ハンドが腕よりリーチのある脚で蹴ったのだった。
父親に治された脚によって。
「グベァッ!」
カップや食器の入った戸棚に波照間が激突した。ガチャンガチャンと皿類が割れる。砕けたガラスが波照間の上に降りかかる。
「削り取ってやるぜッ!」
ザ・ハンドが右手を振った。波照間は目を見開き、横に転がった。
「驚愕はするが、死ぬほどではない。ガオンッていう腕の動きが大降りで予備動作の多いテレフォンパンチなんだよもしもォ~し!」
「『削り取る』って言ったのは、テメェのことじゃねーぜ」
ガオォンと削り取られた空間が閉じた。
「オレと戸棚の間の空間だ」
グゥンッと戸棚が閉じた空間に引き寄せられて瞬間移動する。勢いに負けて戸棚が倒れ、転がっていた波照間の上に倒れた。
「驚愕できたか? 今度こそ?」
億泰はそろりと戸棚に近付いた。波照間は痙攣していた。
「テメェ一体何だったんだ? 『DIO様』とも言ったなァ~。オレのオヤジに関わりがある『DIO様』だ。説明が聞きてーぞ、オレは」
「……てる……」
「何だ? 聞こえねーぞ」
「驚愕はしたが」波照間が呟いた。「既にスリップノットが戸棚に触っている」
億泰が驚いた顔をしたが、咄嗟に両腕で顔面をガードした。
戸棚が弾け飛び、噴火直後の火山弾のようにスリップノットの虫がばらまかれた。
「こ、この大群ン~ッ!?」
音もなく、痛みもなく、虫が億泰の体の中にめり込んでいった。右肘を食い荒らされ、億泰の右手が地面に落ちた。
ザ・ハンド最大の武器である右手も、億泰へのダメージと同じように切断された。
「何でも食うんだ。俺の虫は。驚愕するほど無視できないはずだぜッ!」
「うおおおおぉぉぉぉッッッッ!」
億泰が左腕を振った。だが、虫の食べるスピードの方が早かった。億泰の左腕は肉片を周囲にばら撒き、すっぽ抜けるように千切れて壁に激突して落ちた。
「終わりだ。驚愕したが、キサマの父親はキサマを助けないッ!」
億泰が百十を見た。百十は相変わらず木箱を守っていた。
だけどその目は億泰を見ていた。
「スリップノット……」
「触っているって言うんならよォ~」
億泰が両腕をなくしたまま言った。
「既にオレも触っているんだぜェ~。オレがばらまいた左腕の細胞で」
「はッ!?」
波照間は顔を触った。億泰の肉片が付いている。払い落とすが、体のあちこちに付いていた。
「オヤジの直してくれた細胞がよォ~ッ!」
「驚愕ッ!」
バオォンッと肉片が膨らみ、波照間を吹き飛ばした。攻撃が終了した細胞は、億泰の体に戻っていった。
これでは駄目だ。波照間は、今は勝てない。
俺の出番か。
ガオォンッと音がした。波照間がブチ当たった壁が消滅する。
「え?」
億泰が唖然としている。
それもそのはず。壁を消滅させて現れたのは――
億泰のスタンド、ザ・ハンドだった。
「ザ・ハンド!?」
呼び声と共にザ・ハンドが億泰の背後に現れた。
虹村屋敷の屋根裏部屋に、2体のザ・ハンドがいた。
そして、壁の穴から俺は登場した。
「き、幾何野さん……」
俺は波照間を引っ張り上げた。
「引き上げるぞ」波照間がふらりと立ち上がった。「ここにはあれはない。あるとするならどこにあるかがわかった」
「な、何だ? 何でオレのザ・ハンドを持っているんだオマエ……」
「声が震えているぞ、虹村億泰」俺は睨みつけてやった。「愚問にすぎるから、答えない」
「どこに、あるんですか……吉良吉影の家ですか?」
「喋るな波照間。ただ、あそこではない。たまたま来ていたスタンド使いの漫画家を始末ついでに知ることができた」
「スタンド使いの漫画家って……岸辺露伴のことか?」
「だから愚問にすぎるぞ、俺の偉大なる敵」
俺のザ・ハンドが右腕を振るった。
ガォォンッ! と百十の横腹を削り取った。
「オヤジィィィィッッッッ!」
「ザ・ハンド……このスタンド――中々使えそうだが残念だな」
「てめェッ!」
億泰が殴りかかってきた。百十の体は、すぐには再生しなかった。このスタンドで削り取ると、細胞を作るのが困難になるようだ。
「許さないッ!」
「驚愕するほど奇遇だな、俺もだ」
波照間がスリップノットを動かした。走ってきた億泰の足元の床が一気に抜け落ちた。既に虫で床に切込みを入れておいてくれたようだ。億泰は階下に落ちていった。
「さて、次に探す場所だが」
俺はポケットからあるものを探し出した。
「多分、この場所で間違いない」
それは、岸部露伴から破り取った肉体の1ページだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?