河原町のジュリーの思い出

出会い

「河原町のジュリー」は、70年代後半に京都で暮らしていたひとならだれもが知る浮浪者であった。当時はホームレスということばはなかったようにおもう。
たんに長髪を、それも汚れてコベコベに固まった長髪をたたえていたために「ジュリー」と呼ばれていただけなので、いくら京都出身とはいえ本家の沢田研二さんこそお気の毒ではある。

さて、おれが河原町のジュリーをはじめて目撃したのは高校生のとき、おそらく1976年か77年のことで、初夏くらいのすこし暑い季節だったと思う。時刻は夕方、場所は四条通の鍵善良房があるあたりであったかとおもう。
おれは四条通の北側の歩道を東へむかって、つまり八坂神社のほうにむかって歩いていた。すると、むこうから車道を歩いてくるひとがいる。両手に大きな黒いゴミ袋を引きずるようにもち、よれよれの、汚れて灰色にくすんだコート状の上着を着、まっ黒に汚れた顔にはひげをたくわえ、そしてコベコベに固まった長い髪をした、ほんとうに絶句するほどに汚らしい人物がむこうから歩いてきたのである。

時刻は夕刻で、東西に伸びる四条通をまっすぐ照らすように西日が差している。世の中の「汚い」を一身に集めたような男が、その西日に真正面から照らされて、宗教的ともいうべき情景が現出したのである。
男はよたよたしながらも歩みを止めず、おれとの距離がどんどん接近してくる。あまりの汚さに圧倒されて、おれはもう目を離せない。

そして、おれとの距離が1.5メートルくらいに近づいたとき、男は突然もっていたゴミ袋を離した。そして、ゴミ袋がドサッ! と地面に落ちるとほぼ同時に、男は車道に膝まづいたのである。
眼の前で男がとった思わぬ行動に、おれは恐怖で固まってしまった。
すると、膝まづいた男は、胸のあたりで両手をガシッと組み、四条通をまっすぐ照らす夕日にむかって祈りだしたのである。唸るようになにか唱えていたが聞き取れない。
おれは夕日にまっすぐ照らされて祈るその浮浪者の神々しいばかりの姿と、そこから放たれる強烈な悪臭に、ただただ圧倒されたのである。

この衝撃の出会いからあと、この浮浪者を四条河原町周辺でたびたび目撃することになる。たびたびどころか、四条にいくたびにほぼ必ず目撃していたと思う。
そして、そのころには「あいつ “河原町のジュリー” って呼ばれてるらしいで」などと友人から教えられた。そうしてかれは京都の有名人になっていった。

「河原町のジュリー」という呼び名は、ほんものの美しいジュリーとのあまりの乖離から京都の若者には大いに受けて、すぐに定着した。
すると、二番煎じ的にあだ名をつけられてしまうひともいて、このころには「新京極のロッド・スチュワート」と呼ばれているひともいた。こちらは浮浪者ではなく、修学旅行生むけのみやげ物屋の店先で、ネームプレートに字を彫っているお兄ちゃんだった。ただ金髪の長髪に革ジャンを着ているというだけで、顔はロッド・スチュワートに似ているというほどでもなかった。新京極のロッド・スチュワートについては、その後を知らない。

訃報?

河原町のジュリーは、四条河原町周辺のあらゆる場所で見かけた。河原町通はもちろん、三条通のアーケードで、喫茶「築地」がある路地で、裏寺町で、あるいは南座のあたりで。たいていただゆっくりと歩いているだけだが、ときには飲食店のごみ箱をあさっていた。
寒い季節には阪急の四条河原町駅の地下構内でよく眠っていた。阪急の駅員も鷹揚に排除しようとはしなかったのか、汚すぎて声さえかけられなかったのか、駅ではなんども見かけた。しかし夕日にむかって祈る姿を見たのは、さいしょのときだけだった。

そのようにして、ジュリーが完全に四条河原町の点景となったころ、高校で友人が「おい、河原町のジュリーが死んだらしいぞ」といってきた。「行き倒れになって運ばれていったらしい」と、聞いたうわさを教えてくれた。
そういえばさいきんは見かけてなかったな、ともおもったが、真偽を確認するすべもないし、いくら神々しいほどに強烈な汚さでも、浮浪者の生き死にに男子高校生がそこまで関心をもつわけもない。ふーん、死んだんか。くらいでそのことはもう忘れていた。

生存確認

それから1週間ほどすぎたころ、仕事から帰宅した父に「おまえ、河原町のジュリーってしってるか?」と尋ねられた。
父はまじめ一本の内科医で、世事にはきわめて疎い。いまをときめく芸能人の名前もしらないような堅物だし、若者文化にもまったく無関心なひとだ。そんな父の口から「河原町のジュリー」という名前が出てきたのだからもうびっくりである。

なにごとかと事情を聞くと、なんと父は河原町のジュリーの主治医になっていたのである。ジュリーが死んだといううわさはウソであったが、行き倒れになって運ばれたのは事実であった。運ばれた先が、父が勤務する病院だったのである。

行き倒れの原因はただの栄養失調で、重大な疾患はなかった。しかし、なにせ強烈に汚い、臭い。皮膚にはブドウ球菌がびっしり付着して皮膚炎を起こしていた。汚すぎて、衛生上もきわめて問題があるし、臭すぎてほかの患者もたまったものではない。
そこで、「ジュリー」の象徴であるコベコベの長髪は切られて丸坊主にされ、身体じゅうをアルコールで消毒され、なんども風呂に入れられ、そして、隔離病棟に入れられたのである。

いまはどうかしらないが、当時は伝染病が発生したときのために、隔離病棟の設置を義務付けられた医療機関が都道府県ごとにいくつかあって、父の勤務先もそういう病院だったらしい。
しかし、もう70年代後半にはそういった伝染病が発生することなどもほとんどなく、病棟は開店休業状態。そこに、このやっかいな患者は隔離されることになり、父がその主治医になったのである。病棟の看護師はひまをもてあますほどだったので、この珍なる患者をわりと歓迎したらしい。

気の毒な過去

父が “有名人” の主治医となったことにはときめいたが、父にはおれのときめきのポイントがわからない。おれは何度か父にジュリーの本名を聞いたが、「なんやったかな。なんか立派な名前やったで」と、父は重病というほどでもない患者の名前を覚えなかった。もし正確な本名を聞き出せていたら、おれは高校でヒーローだったかもしれない。

ただ、ホームレスになったいきさつはなんとなくは聞けた。ジュリーは戦争で兵隊に取られ、南方戦線で頭を負傷したらしい。その怪我が原因で精神疾患を患い、復員後は仕事もできず、妻子に逃げられて、それで浮浪者になったという。いわば戦争被害者だ。
しかし、ジュリーは76年ごろに忽然とあらわれた印象がある。いったい終戦から四条河原町にあらわれるまでの30年ほどの時間を、かれはいったいどのようにすごしてきたのだろう。
ジュリーは汚すぎて、とても風貌から年齢がわかるような状態ではなかったが、復員したときに30歳くらいだったと仮定すれば、当時は60すぎくらいということになる。

カムバック

隔離病棟に入れられたジュリーは、体調回復後には施設に入所させるべく市役所のひとが手配していたそうだ。ようやくホームレス生活から脱して安心できる住処に入れる。そういうはずだったのに、ジュリーは失踪してしまう。病院から逃走したのだ。追って強制的につれもどすような権限が病院や市役所にあるわけでもなく、そのままにするしかない。

ジュリーが逃げたという話を父から聞いたあとしばらくすると、短髪になったジュリーをまた河原町で目撃した。髪は短いながらも、また強烈に汚れた格好で街を徘徊していた。堂々たるカムバックである。そして、死亡のうわさを忘れたかのように「ジュリーの髪がみじかなってるw」という話が高校生たちの話題となったのである。
しかしその短かった髪もすぐに伸び、やがて行き倒れるまえとまったく変わらぬ風貌を取り戻していった。完全復活である。

最期

高校卒業後、おれは2浪して京都で予備校生をしていたが、その間もジュリーは河原町の風景だった。なにも変わらない。いつもどおり。
そして83年に大学に進学し、京都を離れた。その翌年、ジュリーは84年2月5日に亡くなった。円山公園で凍死したのである。wikipediaの記述を信じるならば享年66歳だそうなので、入院したころに60すぎという推定はほぼ当たっている。
京都新聞をはじめいくつかの新聞でその死は報じられたと思う。おそらく東京でそのニュースを知ったと思うが、そのときの気持ちをよく思い出せない。とにかく、おれが京都を離れているあいだに、ジュリーという四条界隈の風景がひとつ失われたことがさみしかった。ジュリーの死後、世の中はバブル景気になって、京都の街並みはさらに破壊されていったのだけれど。









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