MaaSの夢と現実(翻訳記事)
2020年8月5日にアメリカの都市に関するニュース記事サイトBloomberg Citylabに掲載された「The Problem With ‘Mobility as a Service’」(「MaaS」の問題)を翻訳しました。執筆はハーバード・ケネディスクール(ハーバード大学の公共政策大学院)の客員研究員で、公共交通と技術の未来などを研究するDavid Zipper氏です。この論考では、MaaSアプリの普及やMaaS事業の収益性についてこれまでの経験から問題点を指摘し、通勤需要を見据えたB2B事業へのシフトなどを提案しています。コロナ禍を経て、MaaSの行く末はさらに混沌としています。記事ではヨーロッパの都市が自転車利用を推進し、それがMaaSの追い風になる可能性を指摘していますが、そもそも世界的に「移動」の見直しが進んでおり、日本では交通事業者の経営が大きな打撃を受けています。MaaSとして盛り上がった新しいモビリティの可能性がどういった方向に進んでいくか、まだしばらく模索が必要だと思っています。
翻訳: 孕石直子・監修: 伊藤昌毅
「MaaS」の問題
2020年8月5日(同8月6日修正)
執筆: David Zipper
スタートアップ企業や交通事業者、政府は、自家用車に代わる様々な移動の選択肢を人々に与える「MaaS」アプリに熱心だ。しかし、その収益は依然雲をつかむようなものである。
(冒頭写真)ヘルシンキ市は「MaaS」を革新的に導入し、他の都市のモデルとなってきた。しかし、MaaSはいまだ収益を上げるのに苦労している。 撮影者: Francis Dean/Corbis Historical via Getty Images
かつて、街中の移動はもっと単純だった。1950年、1980年、2000年の欧米における通勤手段といえば、自家用車、公共交通機関、徒歩、自転車、タクシーなど、決まった手段だけだった。米国国勢調査局も、通勤手段ごとに人々を分類することができた。
そこへモビリティの革新の波が到来し、新しいサービスが登場した。ZipcarやTuroなどのカーシェアリング・スタートアップ、UberやLyftのようなライド・ヘイリング事業、公共のシェアサイクルシステム、そして大小様々な企業による電動キックボード、自転車、モペッド[訳注: 電動スクーター]のシェアサービスだ。自家用車を利用する代わりに、週の間に(あるいは1日の中でも)複数の移動手段を利用する人が出てきた。都市の住民が車以外の新しい移動手段を多数持てたことは良かったが、一方であまりにも多くの選択肢が生まれたことで、A地点からB地点への移動のプロセスが複雑になってしまった。
MaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)は、都市の住民がアプリのような単一のプラットフォーム上で、利用可能なすべての交通手段の中から移動手段を選択することを想定している。ユーザはアプリを使って一回ごとの移動を予約したり、サブスクリプションを購入して複数のモビリティサービスをまとめて得たりする。そして自家用車を手放す自由を手に入れるのだ。
技術によって自家用車のない都市を実現しようという構想は、MaaSをトレンディなコンセプトに押し上げた。MaaSは2014年にフィンランドの大学院生であるSonja Heikkila氏によって初めて提案されたが、その後多くの学会やウェビナーが開かれ、少なくとも2つの協会が誕生した。UberのCEOであるDara Khosrowshahi氏が自社を「移動手段のアマゾン」と称したように、多くの交通事業者が自身をMaaSプラットフォームとして再構築しようと模索してきた。しかし彼らははたして都市の移動の公平な仲介者になれるだろうか。ベルリンやルイビルなど、公共の交通事業者の中でMaaS市場に参入する者も少ないながらあるが、そのような機関は総じて、ユーザ向けの複雑なソフトウェアを構築するという経験が不足している。
代わりにMaaSで目立った成功を収めてきたのが、Citymapper、Transit、MaaS Global(Whimを経営する会社)のような、スマートなアプリを提供する人気のスタートアップ企業たちだ。ヨーロッパ、北米、アジアで何百万人ものユーザがこれら企業のアプリをダウンロードし、彼らが描くマルチモーダルな未来の都市構想に賛同したベンチャーキャピタルが数千万ドルの投資を行っている。
しかし、MaaSの勢いは失速の危機に瀕している。これまでで、都市の住民の間でのMaaS企業の牽引力は、たとえ有利な市場であっても限られていることが分かってきている。例えばベルギーのアントワープでは、地方法でモビリティ事業者は少なくとも2つのMaaSプラットフォームとの統合が義務付けられているにもかかわらず、周辺地域のフランダースで携帯電話やスマートフォンで購入された交通機関の乗車券のうち、MaaSアプリで購入されたものはわずか3%にすぎない。
モビリティ・スタートアップに投資するベンチャーファンド、Energy Impact PartnersのMatthias Dill最高経営責任者(CEO)は、「MaaSは政治家にとっては最大の関心事のようだが、消費者の嗜好や商業的な牽引力とは一致していない」と言う。実際、ダイムラーはMoovelの北米事業を売却し、Citymapperは資金不足に直面していると報じられるなど、MaaSのパイオニア企業の中には今年、逆風に見舞われた企業もある。Moovel 北米の前CEOであるNat Parker氏は、今後のさらなる混乱を予想している。現在モビリティコンサルタント会社を経営しているParker氏は「たくさんの資本力のある企業や賢い人々が[訳注: MaaSという] 幻想を追いかけている」と述べる。
MaaS企業が自家用車から都市を解放するというビジョンを実現するためには、根本的な戦略を早急に見直す必要がある。
その理由は、彼らのビジネスモデルを見てみると見えてくる。MaaSプラットフォームが移動の計画によく利用されているのは事実だ。TransitのCOOであるJake Sionも最近ポッドキャストで、「何百万人もの人が」毎日アプリを利用していると主張した。だが、企業はユーザが特定のアクションを起こしたときにのみ手数料を得る。たとえば、電動キックボード会社は、ユーザがMaaSアプリを使って移動を予約したり、アカウントを作成したりするごとに手数料を支払うような契約をしている。企業の幹部から聞いた話によると、このような手数料は通常10%以下という低額で、時には全く支払われないこともあるそうで、したがってMaaS企業は取引をたくさん行わせる必要がある。例えば、利用料が平均4ドル(約424円)の電動キックボードシェアサービスが週に1万回利用されるとして、5%の手数料では、1年間で20万8000ドル(約2,200万円)しか得られない。シェアードモビリティ企業のほとんどはいまだ利益を上げておらず、したがって支払える手数料の金額も限られている。
都市部で自家用車を使用しない移動の大半を担っているのは、MaaSのスタートアップ企業に警戒心を抱いてきた公共交通機関である。ヘルシンキでは、地元の公共交通事業者であるHSLは、ユーザが外部のMaaSプラットフォームよりも自社のアプリを利用することを好む。ヘルシンキ市のイノベーション機関でモビリティプロジェクトのリーダーを務めるSami Sahala氏はこれを「現状維持の一環だ」と言う。フィンランドでHSLがMaaS企業にキオスクなど他の再販業者と同じ手数料を支払うことが義務付けられる法律が成立すると、HSLは、全ての業者に対して手数料の支払いを取りやめることを選んだ。
その他の都市でも、MaaSプラットフォームと公共交通事業者との間で緊張関係が生じている。ロンドンでは、Citymapperが乗車パスを購入し、ユーザに割引価格で販売していた。オランダのMaaS企業、Tranzer社のパートナーであるSanneke Mulderink氏は最近開催されたMaaSウェビナーで、MaaS企業に対する公共交通事業者の抵抗感をMaaS導入の最大の障害として挙げ、「すべての[乗車]券が市場に出回っているわけではない」と不満を述べた。しかしMaaS企業が政府に公共交通事業者側を強制する法律を制定させるのは無理があり、対策として何ができるのかは明白でない。
個別の移動に対する手数料だけでなく、複数の移動手段に対応したモビリティ・サブスクリプションを提供することで収益を上げようとするMaaS企業もある。MaaS Globalがこうしたサブスクリプションサービスの先駆け的存在で、例えばヘルシンキでは月59.70ユーロ(約7,500円)の定額で公共交通とシェアサイクルの利用し放題にタクシー料金も割引されるサービスを提供している。MaaS GlobalのCEOであるSampo Hietanen氏によると、MaaS GlobalのアプリWhimは現在、人口110万人のヘルシンキと周辺の地域に、他の市場と比較してはるかに多い「1万人以上」のサブスクリプション利用者を抱えていると言う。ただしこれ以上の利用者数の拡大は簡単ではないだろう。現地の調査は、ほとんどの人が、現在の移動費用より30%以上の割引がある場合にのみMaaSのサブスクリプションを購入するとしている。特に自家用車の所有者は自動車の運転やメンテナンスにかかるコストを過小評価する傾向があるため、これはMaaS企業にとっては高いハードルである。
MaaS企業のコントロールの及ばない要素もある。地域の交通政策だ。以前に筆者がCityLabで主張したように、自家用車を使わないライフスタイル(とMaaSアプリ)を実現するために必要な新たな公共交通サービスの設置や自転車専用レーンの敷設、自動車にかかる料金の引き上げなどを実施できるのは行政だけだ。欧州の都市交通関係者のネットワーク、Polisの事務局長であるKaren Vancluysen氏は「MaaSに関して、誇大妄想が作り上げられてきた感がある」と言う。「MaaSは魅力的な考え方ではありますが、アプリをユーザに提供すれば世の中ががらりと変わる、皆が瞬く間に持続可能な移動手段に切り替えてくれる、というのは思い込みです。そんなことは起こりません。」
MaaS企業の幹部の中には、この本質的な限界を認めている人もいる。Transitの最高ビジネス責任者、David Block-Schachter氏は、「我々は常にMaaSを、特効薬的なものというよりは、あらゆるものの上に重ねていくものと考えてきた。」と言う。
では、MaaS企業に未来はないのだろうか。いや、必ずしもそうとは限らない。ただしビジネスモデルの修正が必要だ。
1つの可能性としては、MaaSソリューションを個人ではなく企業に販売することが挙げられる。ブリュッセルを拠点とするスタートアップ、Skiprがとるアプローチだ。SkiprのCEO、Mathieu de Lophem氏は、先日700万ユーロ(約8億8,000万円)の資金調達を発表し、消費者志向が続くMaaSサービスに切り込む。「B2CのMaaSプレイヤーはまだビジネスモデルを模索していることが多いが、当社のB2Bソリューションは初日から収益を上げている」と述べる。
ヨーロッパの多くの国では、長年労働者の福利厚生として税制上優遇された「カンパニーカー(通勤使用車)」制度が定着し、労働者が自家用車を利用する動機にもなってきたが、現在「カンパニーカー」制度からの脱却の動きがあり、Skiprはそれを利用しようとしている。2016年には、ベルギーに570万台ある自動車の10%以上がカンパニーカーとして登録されているが、政府は近年、ベルギー国民の車離れを進めるために、公共交通や電動キックボードなど自家用車以外の移動手段で通勤する人に税制優遇措置を提供する「モビリティ予算」を企業に提供し始めた。Skiprはベルギーの企業にサブスクリプションを販売し、モビリティ予算の対象となる労働者の移動を追跡できるようにしているのだ。カンパニーカーはドイツやフランスなど他の国でも企業の福利厚生として定着しており、B2B MaaSソリューションの市場拡大の可能性を示唆している。[訳注: ヨーロッパ各国の雇用制度や福利厚生についてはJETROによる資料が詳しい。]
米国には通勤用自家用車に補助金を出す文化はないが、企業を相手にビジネスをすることは意味があるだろう。ニュージャージー州などでは、税の保護を受けた通勤手当を提供することを企業に義務づけ始めており、労働者の移動習慣の把握に慣れていない企業にMaaSソリューションを販売する機会が生まれる可能性がある。[訳注: ニュージャージー州の通勤手当制度についての記事が詳しい。]
他にも、Transitのように公共交通のモバイルチケットを販売したり、Intelから9億ドル(約960億円)の資金を獲得したMoovitのように自らを大量のデータを必要とする自律走行車開発企業の資産と位置づけるなど、MaaSのスタートアップ企業が利用できる市場はあるだろう。Citymapperは、昨年断念したものの、ロンドンで独自のデータ駆動型バスとシャトルサービスを提供しようとしていた。
MaaSを広めた元祖の一人であるWhimのHeitenan氏は、「世界最大の産業のひとつである自動車産業を破壊するには、それなりの時間がかかる。」と忍耐を呼びかけている。ロンドン、シアトル、ミラノなど複数の都市が新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに新たな自転車専用レーンや自家用車進入禁止道路を整備したことが、MaaS企業にとって今後数ヶ月のうちに追い風になる可能性がある。ニューヨークやロサンゼルスなどが進めようとしている渋滞料金設定も、都市住民の車を使わないライフスタイルを進めることになるだろう。
私が話を聞いたMaaS企業の経営者たちが皆、個人消費に焦点を当てたMaaS当初のモデルより先を見据えていると言っていたことは心強い。MaaS企業は、最初の6年間で、自動車から解放された都市のビジョンが想像力をかきたてることを示してきた。そのビジョンを実現するためには、それがビジネスとしても成り立つことを証明する必要がある。