コロナになって思ったこと:感染者1と申請主義

8/24にコロナになりました。正確にはそのタイミングで陽性判定が出ました。いつどの経路でコロナにかかったのかは残念ながらわかりません。ウィルスに対してブロックチェーンの技術が応用されて、追跡できる未来が来たらわかるのでしょうが。

幸いなことに後遺症もなく風邪のような症状で事なきを得ました。明日から仕事にも復帰できそうです。休みがどのような扱いになるのか正直不確かですが、生きているだけありがたいです。

全感染者数が出なくなるかどうか検討されているタイミングで私も感染者1となった訳ですが、毎日あがってくるその数は新規感染者な訳で、それが10日も積み重なると考えると、毎日2万人出していると仮定した時に計算を省いて幅を持たせて考えると、都内だけで15-20万人は感染している訳で、上記人数は顕在しているだけの数で潜在している人間も考えるとそれなりの人数が恐らく感染しているのだなと感じました。1400万人の14万人とした時に1%は顕在的な感染者。潜在的な人も含めるとそれなりの感染力を持ったウィルスであることがわかります。

妻も私も検査することで陽性判定を受け、コロナだと分かったのですが、3歳の子供をそのタイミングで検査させてあげられませんでした。というより特に症状もない為できませんでした。このようなケースも含めると潜在的な感染者はやはりそれなりにいるのだろうと思います。

ただ幸いなことに軽い症状で済んだので、Zoom上で学会に参加できたり、読書したりと時間を有意義に使えました。食事も区と都から随分と食事が貰えました。区からは申請せずに食事が貰えて大変助かった一方で、都のものに関しては申請しないと貰えないものでした。ちょうどTwitterでバズっていたものを妻が先に感知していたようで、自分が気付いた時には既に申請してくれていました。

都からは3日間は「最低頑張って生きてくれよな」という感じで、それでも本当にありがたかったのですが、都のものが来た時にその差に唖然としました。陳列させた時は警察の押収品のそれか、あるいはYouTuberになったような気分になりました。フルーツやらコーヒーやらポテチまでそのバリエーションに驚きました。

簡単に言うと区のものは最低限度の生活を保障する生存権で、都のものは文化的な最低限度の生活を保障する生存権という感じ。(都のものは多少ぜいたくかも?でも文化的と考えたら?ここに議論の余地あり?)

文化的に生きるには申請をしないと不可能。自ら音を上げない限りは文化的な生活保障はしないと今の日本社会の社会保障に対する姿勢を見せつけられた気がしました。軽傷で解熱剤である程度回復していたからよかったものの、これが呼吸もままならない程度だとしたらちょっと怖いなと思いました。

申請せずともみんなが文化的に生きられる世の中の実現のためには何をしたらいいのだろうと考えながらまた明日から仕事します。

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