認知症と向き合う取り組みを学校教育におけるケア論に照射する

毎週録画して見ているこの番組。脳味噌が煮え切ってしまっているのか、何故か教育にどう活かせるかを考えながらいつも観てしまっている。(教育を良いものとして自明視していない。むしろそれを怪しいものとして浮き上がらせる手段としてどう活かせるかという方が正しい)

普段は、ふと思うだけで筆が進むことなどないのだが、最近ケア論について触れる機会があり、5年ほど前に触れたノディングス、ケアリングを掘り起こした経緯があり、ここで少し書き連ねることとした。

認知症というと介護が必要な大変な病気のように感じる。そのイメージが先行してか、認知症にかかった人が労働に携わる風景を描きにくい。そのような印象を打破するのが、東京・町田市にあるデイサービス、「DAYS BLG!」の取り組みだ。

これは、認知症にかかった人が有償ボランティアで働いてその報酬を得るというものだ。認知症の進行を和らげるエクササイズや手先を動かすトレーニングでもなく、就労によって緩和させようとする。その点でこの取り組みは画期的である。

何故なら、よく行われるそれらは、あくまで患者というラベリングから、治療の対象として見做され、社会に出ては自分がどこに行くかも分からず危険だと、社会から切断されてしまう。

この有償ボランティアにより、自らが社会に役立っていると実感できることで、社会と接続され、生きている心地がするという。「単純なことだけれど、それが楽しい」と口にする。
この見方を学校教育に向ける。
学校教育は、児童生徒を社会に出しては危ない存在として見なし、自らの「安全」な領域に押しとどめてしまう。子供達は、自身が社会に、地域にどのように役立てられるのかが分からないまま、「将来に必ず役立つ」という信念だけ抱かされて、その匿われた場で学び続けなくてはならない。

ケアには社会との切断という意味が内在していることを念頭に置いた上で、自身がどのように社会に貢献していくか、価値を発揮していけるかを考えていける時空間を作っていけないだろうか。

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