アンサンブルをするということは、愛を学ぶこと

共演者がいるということは、エネルギーが自分で完結しません。

誰かと演奏している時、相手が自分より引き出しが多く、経験も多く、音楽的にも深い場合、私のこんな部分を引き出してくれて、私を引き上げてくれて、本当にありがたい、と、感謝と感激と興奮で幸せな気持ちになる。

こどもの伴奏をしている時など、ことのほか相手が、普段以上に心地よく安心して、良いところが出せ、幸せな気持ちで音楽できますように、私たちの演奏を聴いている人たちが幸せでありますように。この演奏によって、私たちも聴いている人たちも、何かいつもより、より良い景色が見られますように。

と、祈っている。

というか、愛し、ベストを尽くしている、のだと思う。

これは、本当にたまにしか起こらないことだけれど、そのエネルギーがピーっと下がってしまう緊急事態になることがある。


例えば、もう何年も前の話ですが、お互いとても親しみを持って共演させてもらっていたと思っていたお相手が、陰で私を悪く言っていた(しかも大いなる誤解をして)と聞かされた、直後の本番。
私の前と、裏とで、彼女は別人だったということがありました。
出番直前にそんなことを聞いてしまい、私の頭は大混乱。
ぬぬ?!じゃあ、なぜ私の前で甘えた声を出し、私に頼んだの?!
そして本番、彼女の声が聴こえなくなった。

聴いていて、わからなかった方もいるかもしれない。
楽譜通りではあったからです。
けれど、そこには、何もなかった。
2人が、同じ方向を向いて別々の道を歩んでいるという、
からっぽな演奏になってしまいました。

あぁーーー、アンサンブルは愛なんだな、と思いました。

相手の音を聴き、演奏しやすいようにこちらもベストを尽くす、
一緒に、あの高みへ行きましょう!というコミュニケーション行為。

それが、あの時だけ、できなかったのです。
後にも先にもあのようなことはたった一度でしたが、
音楽というものがどんなエネルギーで出来ているのか、
確信した出来事でした。

今も、滅多にありませんが、時に混乱の中で本番を迎えるということもあります。

まったく理にかなっていないがため、気にする必要がない内容であっても、精神がかき乱されるということはあり得ます。

そんな時も、聴いて下さる方がいる限り、愛することをやめないこと。

でも、音には多少、出てしまう。

ものすごい精神修行だなと思うのです。



けれど、そのような相手とのアクシデントは、今の場所にいるべきではない、自分の精神が高められる場所にいるべき、いくべき、というサインであるのかもしれません。

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池浦七菜子
ご支援下さいましたら経費に充てさせていただき、仕事に繋がるピアノ共演法のワークショップをどしどし提供してゆきたいと思います。