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『短編小説』夜明け前


カーテンの隙間から光が差し込んでいる。僕は浅い眠りから覚め、光の筋をぼんやりと眺める。それが、朝の光なのか昼の光なのか分からないけれど、外から微かに鳥のさえずりが聞こえるから、きっと朝なのだろう。僕は再び眠ろうとしたが、尿意を我慢できなくなり、緩慢な動きでベッドから起きあがった。右足を降ろす際、床に置きっぱなしにしていたカップラーメンの食べ残しを蹴飛ばしてしまい、汁が床に飛び散った。よろめいた左足は固いプラスチックケースを直撃し、バキバキと不穏な音が響いた。それは、数枚積み重ねたままのCDのケースだった。大きく舌打ちしながら、部屋中に散らばったゴミや衣類を避けながらトイレへ向かう。ラーメンの汁を拭くのは、用を足したあとだ。

気が付いたらゴミ部屋の中で過ごしていた。僕は小学校教諭として仕事に追われる日々を送っていたが、僕の指導が下手だというクレームが保護者から出た時から歯車が狂いだした。その頃から、教室内の子ども達の態度が急によそよそしくなる。教材や児童教育書を暗記するくらいに読み返したが、学校内の僕の評価は下がる一方だった。ある日、通勤時の駅のホームで唐突に目眩を感じて電車に乗ることが出来なくなる。そして強烈な頭痛に襲われた。しばらくして立ちあがることが出来たが、翌日は電車内で吐き気を催した。苦しい。でも、仕事をしないとますます評価が下がってしまう。歯を食い縛るように教材を読んでいたら、不意に涙が出た。病院で「鬱症状に伴うパニック障害」と診断され、一か月の休養を宣告された。そして、僕の体に魔物が棲みついた。魔物は、僕のあらゆる感情や気力を奪っていく。一日中ベッドで寝ていたら、起き上がることが億劫になった。食事はコンビニ弁当でいい。ゴミは溜まってから捨てればいい。食器洗いも洗濯も、全てが面倒くさい。そんな生活が一週間続くと、あっという間に住居はゴミ部屋になった。自堕落な生活をしても傷病手当が付与され、ますます働く意欲を無くしてしまう。一か月が過ぎても、「体調が改善しない」と言って休み続けている。こんな生活は駄目だと理解しているが体が動かない。魔物に支配された体は、このままゴミに埋もれて窒息するのだろうか。ベッドの上で、身体の奥底からじわじわと闇に侵食される感覚に浸りながら、天井を眺める。

梅雨が明け、本格的な暑さが続くと部屋の中でコバエが飛ぶようになった。耳元でコバエの羽音が聞こえると睡眠の妨げになる。僕は生ゴミをかき集めて、袋に詰め込んだ。だるい体を引きずるようにして部屋を出る際、財布をジャージのポケットに入れる。ついでにコンビニでパンでも買ってこよう。アパートのゴミ集荷場から去る際、どこかから焼きたてのパンの香りが漂ってきた。それは、アパートの斜め向かいに建っている、綺麗な外観のパン屋からの香りだった。いつの間にオープンしたのだろう。外壁にはモーニングサービスの案内が掲げられている。僕はパンの香りに誘われて、店内に足を踏み入れた。店には何十種類ものパンが並んでいて、芳醇なバターの香りや、甘い砂糖の香りが充満している。カフェスペースへ行き、日替わりパンとホットコーヒーを注文した。湯気を放っている熱々のシナモンロールを口に含むと、シナモンシュガーの甘さと胡桃のほろ苦さが口中に広がり、しみじみと美味しいと感じた。この感覚はいつ以来だろう?僕はシナモンロールをぺろりとたいらげ、会計を済ませた。その後、なんとなく真っ直ぐ帰る気分になれなくて、アパートの横にある児童公園を一周する。夏の朝の、少し湿度を含んだ空気の中で深呼吸をした。その日から僕は、朝に目を覚ますことが出来たらパン屋へ行くようにした。

ある蒸し暑い夜、変な夢をみた。僕を支配する魔物、それは毛むくじゃらの妖怪で、頭からボロボロの黒い布切れを被っている。なぜかそいつがパン屋の中をうろついている。店員が魔物を退治しようとするが、逃げ足が速くて捕まらない。魔物は、焼きたてのパンを無造作に食べ散らかした。すると、毛むくじゃらの足がうっすらと霞んでいく。やがて体はどんどん萎み、魔物が被っていた布切れだけがひらりと床に落ち、そこで夢の世界は終わった。目が覚めてスマートフォンを見る。午前四時十五分。僕は再び深い眠りの世界へ行きたくなかった。このまま朝を迎えたい。そして、焼きたてのパンが食べたい。魔物は、香ばしいバターや小麦の匂いを嗅ぐと消えてくれるだろうか?僕は部屋の中のゴミをちらと見たあと、少しカーテンを開けた。濃い灰色の雲が夜空を覆い、月は鈍い光を放っている。僕は、夜気が早く去っていくことを願った。

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