賀状の友
うん十年ぶりに学生時代の同級生から電話が来ました。『年賀状が返送された』と、心配の旨お電話をいただいたとのこと。
その方の年賀状は、
毎年、記憶に残らないんです。
印刷した年賀状に手書きのコメントがひとつもなく、まぁこれが届くと言うことは、差し出し人は今年も生きてるからありがたく思えということなのだなとか、
年賀状についている郵便局の抽選番号に、よほど自信があるのだろうなという理解でいました。
翻って私などは筆不精で、
何年も前から年賀状のお返しすら出していないロクデナシでしたので、どのような状態でも逆に尊敬してしまうのです。
時間をかけて出してくれたことにこそ感謝してはいましたが、
『賀状の友』という言葉が示す通りの間柄って本当にあるものなんだなと思いながら、
受話器越しの彼女の言葉を聞いていました。
ウイスキーが醸されてしまうほどの長い時間、交歓のなかった相手に、
「ねえ、聞いてもいい?、どうして離婚したの?」
って、聞きます?
聞いたところで話すと思いますかね。
話てわかると思うんでしょうかね、
結婚するときも確か報告はしませんでしたから、たぶん私なら聞かないかな。
ヒトコトで説明できるものであれば、
たぶんこの世の芸術作品は、大方生まれてきていないわけじゃないですか。
俺なんて濃い目の蠍座ですからね。
よほど親しい間柄でなければ、野生動物なみの用心深さを発揮しますよ。
なかなかひとには傷を見せないように、
ひっそりと薄暗い洞窟の中に引き籠もって、ゆっくりと体力を回復します。
大した傷じゃねえしと思う強がりの部分が少しと、
風が吹いても沁みるような、浸出液だらだらの血のにじむ擦り傷をいま見せられたところで、相手の困った顔や躊躇する姿にさらにこちらが傷ついてしまうかもしれないし、
そんな想いをさせること自体、申し訳なくなってしまうじゃないですか。
勢い、
「まぁねえ、色々だよねえ」なんて、当たり障りのない相槌を返したくらいにして。
今も大変そうな彼女の身の上を電話越しに感じつつ、「学生時代の、情に篤い変わらないあなたでいてね」と期待する気配を、
心の斬鉄剣で袈裟懸けにしてみました。
もちろん決め台詞付きです。
無理っす。
人間、こうして大人になっていくのだなぁと感慨を深めたり、
わたしも大事なひとに、
こういう種類の期待をかけて話をしていた時期があったなぁと、
と富山湾のように深く反省した次第です。