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長生きか?散り方か...

フリーランスの庭師です。

妻は「人生100年時代」とよく言います。

確かに平均寿命が延びて、至るところにお年寄り
がいる気がします。

そういう私も来年には還暦を迎えるので、もうすぐその仲間入りと言えなくもありません。

世間では長寿を素晴らしいこと尊いこととしていますが、私はあまりそうは思っていません。


私の母方の祖父は103歳まで生きました。足が弱くなり晩年は施設で過ごしていました。
頑固で人見知りな祖父は、施設で全くと言って良いほど友人を作りませんでした。

施設のスタッフが色々と気を遣ってくれても、「家に帰りたい。ここに居ても何も面白いことは無い。」と常日頃言っていたようです。祖父は逝くまで頭がボケなかったので、逆に不憫でした。

自宅介護の選択肢もあったのですが、祖母の介護を長らくしていた叔母は疲れきってしまい、祖父の介護をするには心身ともに限界だったようです。

私の母を含めた叔父叔母たちは、長男の叔父に自宅介護を迫りましたが、叔父は首を縦に振りませんでした。これ以上自分の妻の辛そうな姿は見たくなかったのだと思います。

そして、私の母を含めた叔父叔母たちと、長男の叔父との断絶が始まってしまいました。(数年後には和解しました。)

堪り兼ねた私の母が父と相談をして「うちで引き取る。」と言いましたが、「親の面倒を見るのは長男の役目!」と祖父は頑として聞き入れませんでした。昔の人は頑なにそう思うようです。

結局、自宅に帰りたいという祖父の願いは叶わず、施設に入ったまま逝きました。

そして葬儀の参列者は少数の親族だけでした。長生きをした祖父の知り合いは皆他界していたからです。コロナ禍を経験した今なら少数の葬儀は珍しくありませんが、当時としては「こんなに寂しい葬儀はないな…。」と感じたものです。

それ以来、長生きとは本当に幸せなのだろうか?と考えるようになりました。

世は高齢者社会。認知症の方は沢山います。寝たきりの方も沢山います。もちろん認知症にもならず健康で快活な方もいるとは思いますが、どれ程いるのか…。

要は老人になった時に『どう過ごしているか』で、長生きが美徳かどうかが分かるのではないかと思います。

まずは健康なこと。次に経済的に生活ができること。そして社会の迷惑にならないこと。むしろ社会に何かしら貢献できていること。

これが出来ないのであれば、長生きは『負』を纏ってしまうのではないでしょうか。

私は幼い頃から長生きをしたしたいと思ったことがありません。小学生の頃に織田信長を知り尊敬し、太く短い人生を想像していました。

社会人になってからも、定年 (当時は60歳) を過ぎたらいつ死んでも構わないと思っていました。

もうすぐ還暦。もちろん今直ぐに死にたいわけではありません。

まだまだやりたいこともあります。楽しみもあります。でも「いつ死んでも後悔はない。」と思える生き方をしてきたつもりです。

誰かに (妻を含めて) 迷惑を掛けるようになってしまったら、命の灯火は消したいなと考えてしまいます。

各々の寿命は誰にも分かりません。綺麗な散り方ができるよう、今後も心身ともに精進したいものです。


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