自然樹形について
植木屋の感性、剪定の理論、突き詰めると大きく2つに分けられると思われる。
木を従わせようとしているのか、木に従っているのか。
形良く丁寧に剪定された樹木には目を奪われる。
しかし、個人的には目を奪わない木こそ真に美しいと感じている。
野山で見る木々に、その種の感嘆は抱かない。そこに感じるのは、自ずから然るに成っている美しさ。心地よさ。自然なものというのは基本的には周りの空気に溶け込み「我を見よ」と主張などはしていない。
どれだけ綺麗に剪定したとしても、作者の我が透けると不自然になる。
そして不自然な剪定は例えどれだけ高い技術で綺麗に仕上げられていたとしても、木にとって首輪をかけられているような居心地の悪さを与えてしまい空気が少し重くなるように感じる。そしてその庭は作品の展示会場のような趣で、風情という点では損なわれてしまう。
剪定など本来はしない方が木は美しく育つ。必要なくなった枝は木が自己判断で枯らしたり虫に与えたりして落としていくので、環境に問題がなければ1番理想的な樹形へと自ずから成っていく。
しかし様々な人間側の都合で、庭木というものは剪定が必要となるわけだが、この「木の自己判断」になるべく近い剪定を心掛けると自ずと自然樹形に近づいて行く。
木が声を発して自分の考えを話してくれるわけではないので、樹種によっても異なるそれぞれの設定図のようなものを体得していくしかない。
例えば、レオナルド•ダヴィンチが発見した木の法則の一つに、枝分かれした全ての枝の太さを足すと枝元の太さと一致し全ての枝の太さを足すと幹の太さと一致する。というものがあり、自然な樹形を作る上で剪定の際のひとつの指標にすることができる。
他にも数多存在する法則性にどれだけ気付けるかが自然樹形を目指す上での鍵となる。
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