ライブレポ クジラ夜の街 ワンマンLIVE無料配信 ”透視”

ライブレポ クジラ夜の街 ワンマンLIVE無料配信 ”透視”
2021年2月27日(土) 20時~ @YouTube


1.はじめに

 「クジラ夜の街」というバンド名は2年位前から聞いていたし、昨年にサブスクで解禁されたシングルとアルバムも何度か流し聴きをしたことがあったし、高校在学時の文化祭の後夜祭での演奏もYouTubeで観たことはあった。ただ、それだけで、「今の高校生は若くて元気だなあ」としか思ってなかった。そんな過去の自分を、少しだけ責めたくなった。


2.セットリスト

 セットリストは「歌姫は海で」から始まり、「詠唱(Prelude)」、「ラフマジック」、夜間飛行(Prelude)」、「夜間飛行少年」、「インカーネーション」、「奔走(Interlude)」、「幽霊船1361」、「オロカモノ美学」、「言葉より」、「0話革命(弾き語り)」、「クロージュと夜の合図」、「ヨエツアルカイハ1番街の時計塔」、「Golden Night」で幕を閉じた。この日のセットリストをApple Musicで聴きたい方はこちら→ https://music.apple.com/jp/playlist/%E9%80%8F%E8%A6%96/pl.u-JPAZ9YZtLB6Xo1D



3.まず最初に感じたことー「若いのに」という鎖は解かれた

 まず最初に感じたのは、弱冠20歳の少年達とは思えない圧倒的な演奏技術と音楽センスだ。腕が4本あるのかと見紛うほどに高速かつ高度なテクニックを見せるDr.はだ、曲の難しさにも表情を一切変えずに安定したリズムを生み出すBa.佐伯、度々狂ったようにギターをかき鳴らすGt.山本、複雑なバンドサウンドに寄り添う音を正確に奏でるSup.高田、そしてひとつひとつの言葉に感情を込めて届けようとするGtVo.宮崎。若さやそれ故の元気さは、圧倒的な演奏技術と音楽センスというプロフェッショナルの陰に隠れた。


4.GtVo.宮崎の魅惑ー表現力とカリスマ性

 特にGtVo.宮崎については、前世でも表現者だったのでは?と疑ってしまいたくなる。というかそうであってほしい。出ないと説明がつかないので。曲中でもMCでも、その言葉選びや声色、カメラの向こうにいる人へ送る視線など、プロの表現者としてのカリスマ性を感じた。そしてそれは、弾き語りでの「0話革命」で一層際立って感じられた。
 彼の魅力の一つに声があるが、高音は鼻にかかったようで、それは必ずしも万人受けするタイプのものではなく好き嫌いの別れるものだと思う。こういう声がもともと好きな人もいるし、そうでなくても”刺さる”のは、複雑なバンドサウンドと情感溢れる彼の声が綺麗に調和しているからなのだろう。少なくとも、私は刺されてしまった。


5.プロとしての意識、こだわり

 また、プロという見方で言うと、衣装やライブの構成、演出に関しても細かいこだわりが見られた。白に統一された衣装、月光・月夜のような青白い照明、”夜間飛行”しているようなカメラワーク、転換中に映されたアナログテレビなど、その一つ一つが”クジラ夜の街”というバンドを表現する必要不可欠な要素であるように思った。


6.結びにかえて

 今回のワンマンLIVE無料配信”透視”では、クジラ夜の街というバンドの演奏技術から音楽センス、表現力といった表面と、構成や演出といった裏面を目の当たりにできた。ライブを振り返ると、GtVo.宮崎の言葉一つ一つが彼の人間性から丁寧に紡ぎ出されたものであったし、そうして生み出された彼らの音楽の世界観が、まさに超常現象のようだった。
 クジラ夜の街というバンドが、どういう音楽をつくっていて、どういうライブをしているのか。こうしたところから、彼らの音楽に対する姿勢や向き合い方を垣間見れた気がした、あざとい夜だった。

7.憶測と解釈ー「言葉より」の歌詞から、弾き語りのセットに「アンティーク」があった意味を憶測・解釈してみる

 これは完全なる憶測なのでその真相はともかく「そういう捉え方をする人もいるんだな~」という程度にご理解いただきたいのだが、転換中に映されたアナログテレビや「0話革命(弾き語り)」の場には地球儀や砂時計などのアンティーク・インテリア雑貨があった。これと「言葉より」の歌詞にある「アンティーク」が同じ意味だとしたら、などと考えてみる。

 まず、私なりの歌詞の解釈を示したい。この曲の主人公「あたし」は「傷を傷としてみなせないことが傷になること 気づきもしないで 言葉を欠けないで」と言っている。この「言葉を欠けないで」としているところに、「あたし」の不器用さがうかがえる。どういうことかと言うと、この言葉を耳で聞いたときには「言葉を掛けないで」という冷たい言い方に聞こえてしまうが、本当は「言葉を欠けないで」、これは「言葉を掛けて」とも言い換えられる。でもやっぱり言えないという不器用な人間なのではないだろうか。歌詞の終盤には「今夜だけは 今夜だけは1人にしないでが言えたなら」という願望のたらればがあることからも、「あたし」はこの不器用さを自覚することはできていると考えられる。
 ではなぜ、「あたし」は不器用な人間になってしまったのだろうか。その原因はわからないが、不器用とは別の言葉で「人間不信」という言葉なら説明がつくのである。
 といっても、この歌に「あたし」を人間不信にさせるような、明らかな悪意を持った人物は存在しない。むしろ、欠陥品である(と本人が思ってる)ことを気をつかって(ると本人は思ってる)アンティークと言ったり、欠点(だと本人が思ってること)を撫でたり、(本人にとっては)痛いくらいやさしくしたり、届け物をしてくれたりと、みんなやさしいのである。
 しかし、どれだけやさしい言葉をかけられても、欠陥品、傷、欠点、最下位など「あたし」のネガティブな自意識は変わらない。それほどの重大な出来事が「あたし」にネガティブな自意識を植え付け、人間不信にさせたのだろうと考えられる。


 話を整理すると、過去の重大な出来事が「あたし」にネガティブな自意識を植え付けたため、今どれだけやさしい言葉をかけられても、そのやさしさや言葉を信じられず、「みんなのことが嫌いになりそうでこわい」という人間不信のような状態になってしまったのである。
 でも一方で「あたし」は、人間不信という自分や奈落の底みたいな部屋から逸脱するために、「毛布や膝掛け あったかいココア」や「抱しめて欲しい」と求めている。どっちつかずなのだ。

 このように解釈すると、「あたし」はネガティブで人間不信で、だけど言葉ではない人のぬくもりを求めている、わがままで自分のことしか考えられない人のように思えるかもしれない。しかし、「あたし」をあえて客観視すると、自分の現状と課題を認識できており、尚且つその解決策となりうる願望まで打ち出せているのである。ただ、それを自分の言葉で説明してもわかってくれる人が周りにいない(と思っている)だけなのだ。歌詞の最後にもあるように、「あたし」はどうしても言葉に依る、言葉をその手段とすることに囚われてしまっている。そう、最大の問題は「あたし」がどうしても言葉による、言葉をその手段とすることに囚われてしまっていることによる、負の螺旋階段の最中にいることなのだ。

 憶測が大幅に広がりすぎてしまったので、話を整理しよう。これまで私は、「アンティーク」が意味することを、「言葉より」という曲をもとに憶測を立てた。さらに、「言葉より」の主人公「あたし」と「インカーネーション」の「君」「あなた」が同じ境遇にいるのではないか、と憶測を展開した。

 話を元に戻して、今回の配信ライブの転換中に映されたアナログテレビや「0話革命(弾き語り)」の場に地球儀や砂時計などのアンティーク・インテリア雑貨があった意味を解釈したい。というか、解釈の過程を改めて示すまでもなく、その意味がクジラ夜の街というバンドが若い世代から支持を得ている理由だと思うのである。

 一見すると彼らは、夜間飛行、革命、時計塔など、自分たちとは全くの異世界で生きる存在に思えるだろう。確かに彼らはそういう才能に溢れていて、魅惑があるのだけれども、それだけではなくて、人間の美しいところだけでなく恥ずかしいところも、弱いところも、どっちつかずなところも、愚かなところも、全部わかってくれていて、言葉よりも先に抱しめてくれるような気がする。そう思えて安心させてくれるのである。

 私は、彼らと共依存になってしまっても構わない。
 

#クジラ夜の街

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#にわか邦ロック好き大学生


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