かとうさん論の考察と仮説。
どうしてそんなにかとうさんのこと好きなの?
と聞かれて、考えた。
まず浮かぶのは、私の性癖として「教室の隅で自分を表現できずにうずくまってるやつ」をみると我慢できんくらい好きになるし表現してほしいと思ってしまうこと、がある。
それはただ鏡に写った私をみてそう思ってるだけなんだろうけども。
え?かとうさんって教室の隅でうずくまってるの?むしろ教室の斜め上にいない?って思う人もいるかも知れないけれど、それは彼なりに最適解を探していたらそうなってしまうだけの話にみえる。
そしてそれは今の姿だ。過去の彼はたぶん、教室の隅、いや、斜め下に、追いやられていたのだろうと思う。
彼は過去をあまり語らないが、たま〜にぽろっと出る過去話を継ぎ合わせると、かなり迫害されてきたのだろうことは想像できる。それは殴る蹴る罵声を浴びせるという単純な暴力によって。
学校のいじめがなぜ起こるか。
答えは簡単である。こどもだからだ。こどもには受容力がない。多様性を知らないし器が小さい。「なんか自分とちがう」と感じたらこどもはそれを排除しようとしてしまう。
いじめが起こるのは「わからない」からだ。
ハーフであり見た目もロシア系、日本語もままならない、さらに価値観や文化もロシアの影響が色濃くあるこどもが学校でいじめられることは、残酷だが自然なことである。「わからない」のだ。わかってもらえない。
大学デビューという言葉がある。
私も高校まで教室の隅にいたが、晴れて大学デビューを果たす。それは、周りが少しおとなになるから起こる現象なのであろう。少し受容力が増すから、少し「わかる」から。わかってもらえるから。
しかし彼には大学デビューもない。そして職場でも迫害は続いたようだ。
そんな彼に、やっとデビューのときがきた。
素晴らしい受容力。
その場所を見て僕はそう思った。彼のような異端が、受容されている。表現を許されている。この場所は、そうあるべきだしそうあり続けて欲しいと願った。
もちろんトラブルがなかったわけではない。
しかしその度に彼は学び続けた。儀礼や贈与を身に着け良好な関係を構築する術も、日本語力や日本人的考え方も、ありとあらゆることを学び続けた。
学習して自分を変化させることができるし、人の助言やアドバイスを聴く力がつよい。そして助言だけでなく、罵声を聴く力のつよさに驚いたことがある。「言いたいことは言えましたか?気はすみましたか?」彼はこれをイヤミではなく、優しく問いかけてくる。
そうか、受容力がつよいのは、かとうさんだ。今まで、たくさん受け容れてきたんだ。
彼は助言もアドバイスも罵声も、全て受け容れる。そして、態度を改める。
自分を、変える…。
そうして教室の斜め上にいっただけのこと。
ある日、彼の表現が消された。
やっと見つけた受容される場所、彼の表現が許された場所での出来事である。
それは彼に違反行為があったから、とのことだが、兎にも角にも彼の表現は消された。
僕もnoteなど書くことは好きだし、消されることのつらさも知っている。
でもこのときの彼の気持ちがどれだけのものであったか、僕には想像ができない。
その制裁に耐えきれず、彼は自らその場所を去った。
この出来事は、その場所の受容力が足りなかったということにもなるだろう。
僕は哀しかった。
当時僕は、ある漫画のオチを白抜きにして大喜利にする企画をやっていた。
僕はこのお題に、自分で大喜利投稿した。
「お前の家、燃やしといたから。」
正解(?)はコチラでどうぞ。
知の魔人ブウ。
かとうさんにはこんな面もある。とにかく見知ったもの全てを、もっと知りたくなる病気。
知らない単語を知ればすぐに調べるし、なにか本の話題になるとすぐポチってしまう。下手すると上の漫画もポチってるかも知れない(漫画は興味ないかな?)
笑ったのは一緒に電車乗ってたときに本をポチっていて「なんでその本?」と聞いたら「向かいに座ってた人が読んでたから」と言ったこと。
彼の凄いのは本やテキストだけでなく、映画やフィールドワークにもすぐ出掛けてしまうところ。
誰だったか文豪か誰かの墓をみにいったのが彼との初めての散歩だが「なんで墓?この人好きなの?」と聞くと「いや、昨日聞いただけ」という。「知に呪われてるね」と笑うと「そうそう」と笑っていた。
そんな彼に、僕は密かに「知の魔人ブウ」という称号をあたえた。すぐチョコにして食べちゃう。
なぜそこまで知に貪欲なのか?
ここからが僕の最大の仮説である。
こどもである周りが、こどもであった彼をイジメるときに、浴びせていたであろう言葉を想像する。
「お前なんかニホンジンじゃない」
「お前は日本語もわからない」
「なに言ってんの?意味わからない」
「お前になにがわかるの?」
わからない
わからない
わからない
そう、僕はみんなのことがわからない。
だからイジメられるんだろう。
受け入れてもらえないんだろう。
だから、なんでも「わかる」ことにこだわり、「受け容れる」ことをずっとやってきたんじゃないかな。
というのが僕のかとうさん論仮説です。
はあ?彼が受け容れてる?
思ったことすぐ言ってしまう彼が?
という意見もあるだろう。
それこそ僕に言わせれば「は?」である。
これはかとうさん論ではなく持論。
本音こそが至高。建前なんぞクソ。
建前で付き合わなきゃならん相手と深くつきあう必要なんかないでしょ。
ではなぜ人は建前を手に入れたのか。それは本音をぶつけると攻撃されてしまうからである。
なぜ本音を受け容れて対話ができないの?
たぶん似たような感覚はかとうさんも持っていて、それでも彼は「儀礼」を身につけた。いまは「自制」をやっている。ただそれは、また斜め上に行くだけにも見えるが。
「本音と建前」ではない「本音とホンネ」を使い分けるモンスターの今後の動向に目が離せない。