もののけ姫を映画館で観た話

小学3年生の頃、お小遣いで買ったリングノートにもののけ姫を観た感想を書いたなあ、と、映画館に向かいながら思い出した。
それまでに何度も観たことはあったけど、感想を自発的に紙に書き出したのは初めてだった。ただ、小学3年生の語彙力と頭脳ではろくに文章にすることもできず、「モヤモヤして頭のなかゴチャッとする~。このモヤモヤしばらく取れへん気がする」みたいな内容にしかならなかった。
どうしてモヤモヤするのかも分からなかったのだろう。しかし当時の私のモヤモヤなど今の私はすっかり忘れている。
というわけで、リベンジよろしく現在の私がもののけ姫を観て抱いた感想を書いてみようと思う。

生きるために殺す物語

改めて観たもののけ姫は、どん詰まりの衰退勢力たちが生存権を争って殺しあう熾烈で壮大な生存競争の話だった。
生きるためには殺さねばならないが、そうして勝ち取った未来をどう生きるのか、という映画だ。

未来のない集団たち

実は今回初めて気づいたのだが、もののけ姫には子どもが登場しない。
誰々の息子娘という意味ではなく、年齢的に保護者が必要な子どもが出てこない。
アシタカの故郷が若者不足にあえいで、ゆるやかに衰退しているのは冒頭で語られている通りだ。
だが、活気あふれるタタラ場にも子どもはいない。甲六とおトキ夫婦がいるので、他に夫婦がいたりその間の子どもがいてもおかしくないのだけど、まったく出てこない。子どものおもちゃがあるなど、存在を示唆するような描写もなし。
師匠連やら侍集団はちょっとよく分からないので割愛。タタラ場、師匠連、侍はもう大きくまとめて人間側とくくってしまうが、とりあえず人間側に子どもは登場しない。

一方のシシ神の森サイドにも未来を託せる若い勢力がいない。
モロ一族も子はサンとあの2頭だけで、滅びの危機に瀕している。
援軍の(と呼んでいいのか分からないが)、乙事主一族は数もたくさんいるが「みな小さくばかになってしまった。このままではいずれただの肉として人間に狩られるだろう」ということなので、このまま衰退する運命が待ち受けている。

つまり何が言いたいかというと、殺しあうこれらの勢力はみんな、このままだと衰退するどん詰まりの集団なのだ。
だから子どもが出てこないのだろう。子どもは次世代、未来の象徴だ。
どこかの集団に子どもが登場してしまうと、「この集団が未来を勝ち取る」という暗喩になってしまうのであえて出てこなかったのだろう、と解釈した。
森も人間も、とにかく勝ち抜かねばその先がない。
アシタカは「双方生きる道はないのか」と問いかけるが、劇中で明確な答えは提示されない。
そんな道はない、と切り捨てるのは簡単だが、果たしてそれで終わらせていいのだろうか。

未来という余白

さて、物語は複数の集団、たくさんの人間のそれぞれの思惑を土石流のように飲み込みながらクライマックス、シシ神の首へと突き進む。
かくしてシシ神はたおれ、人間勢力が生存権を勝ち取って物語は幕を引く。
死にいく森は人にささやかな祝福を贈る。アシタカの呪いを断ち、病人を癒す。
しかしシシ神という脅威は消えても、人界から争いはなくならず怨みつらみは消えないだろう。
それでもシシ神はアシタカを含めたすべての人間に生きろ、と言い残した。どう生きるかは自由だ。
次世代を残し未来を繋ぐもいい。一代限りと命を燃やし走り抜けるのもよし。
生き残った彼らがどう生きるのかという未来は、私たちの想像に委ねられている。
この余白こそが、私たちへの最大のメッセージなのかもしれない。
現代に生きる私たちもまた、自然を壊すことで人類の未来をひらいてきた。
双方生きる道はないのか、という問いは、私たちに向けられたものでもある。
さて、あなたたちは、どう生きますか?と。

おまけ モロ母さんについて


カッコつけて終わりにしてもよかったのだけど、そうは問屋が卸さねえもっといろいろ思ったことはあるぜ!というわけでおまけ扱いでポロポロ書こうと思う。
おまけの方が全体の分量が多い気がするし、おまけその2、とか続いちゃったりしそうな気もするが、お付き合いくだされば幸いです。

さて、本題である。
今までスルーしてきたのだが、私が思っていた以上に、モロがサンへ向ける愛情が深いことに気づいた。もののけ姫という作品のなかの全ての母性がモロに集約されサンに注がれているように思うほど。
サンが人間を憎みつつも、アシタカを人間として認めたうえで普通にコミュニケーションを取れたのは、モロに愛情深く育てられたおかげなのかもしれない。根拠はないのだけど、何となくそう思う。

モロと小僧

「黙れ小僧!お前にサンが救えるか」
から始まる超有名台詞は、モロの気持ちがぎゅぎゅっと込められた母の愛の結晶と言えるだろう。
サンを本当に大事な娘だと思ってなければ、「あの子を解き放て、あの子は人間だぞ」なんて青臭く抜かすアシタカに「黙れ小僧!」なんて一蹴はしない。そうかじゃあお前が嫁にでももらってくれ、とでも言うだろう。
モロはサンが人間であることを誰よりも念頭に置いて生きてきたのではないか。
サンがどれだけ自分は山犬だと言い張って森の生き物と共に在ろうと、サンの外見は人間から山犬に変えることはできない。その在り方のせいで人間からも森からも疎外されてしまう「哀れでみにくい、可愛いわが娘」の行く末を一番に案じていたのではないか。
生まれながらに山犬ではない彼女を森の死に付き合わせるには忍びない、という本音が見える「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが」という台詞にはぎゅっと心が掴まれた。
種族を超えた深い愛情が、そこには確かにある。

洞穴でのモロとアシタカの問答に、一旦話を戻そう。
「お前にあの子が救えるか!」
「分からない。だが共に生きることはできる!」
モロはこの返答を嘲笑い、ここを去れ、と静かに促す。
この場でアシタカを噛み殺すこともできただろうがあえてそれをしなかったのは、彼の正直すぎるが誠実な答えに一応及第点をくれてやったのかもしれない。

モロと宿敵

山犬として生を受け森を人間から守ってきたモロである。タタリ神にならなかったのはひとえにモロの心持ちの賜物であり、森を荒らす人間には相当の恨みを抱いてきただろう。
とりわけエボシには壮絶な執念を抱き復讐心を燃やしていたことは明らかである。
そのエボシの首を食いちぎるという宿願を目前にして、モロは最期の力をサンの救出に使う。
復讐より可愛い娘をタタリ神にしないことを優先させた、母の愛大爆発シーンだ。
首だけの姿でエボシに一矢報いることができたモロだが、片腕を食いちぎったのは偶然ではなく意図したことだったのではないか。
シシ神の森が終わるのは必定、この先は人間の時代が来る。サンが森と心中せず生きていたらその時はお前頼んだぞという、エボシの力量を見込んでの叱咤激励と仇討ちを込めた一撃だったのではないか─と思いたい。

こんなに愛情深いモロ母さんが登場するもののけ姫だが、不思議と人間側には母性を感じさせる人物がいない。エボシは頼れるリーダーだがお母さんというのは違うし、おトキさんも素敵な女性だがあまりお母さんと呼べる雰囲気ではない。
何かの意図があるのかもしれないが、その考察はまたいつかの機会の宿題に。



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