夫に言われて進撃の巨人を全話見た

進撃の巨人全話を見終えた。
夫に「オタクやのに進撃の巨人見てへんの?見ようや」と言われたからである。
「1期はリアルタイムで全部見たけど、もうええわ。巨人怖いもん」と後ろ向きな私に「進撃の巨人の面白いところはこれからやねん、ぜひとも見てほしいねん」と熱心にすすめられ夫が自分のタブレットでNetflixを開きお膳立てされるがままに見た。
最初は「夫がすすめるから」と不承不承ながら見ていたが、徐々に明かされる謎、次々と襲い来る絶望的な危機、ギリギリだが鮮やかに切り抜けるカタルシスに見事に引き込まれて完走した。
ぐるぐると脳内を走り回る感想をつらつら書いてみたいと思う。
全話見た感想なので当然ながら最終回までのネタバレが含まれる。未読・未視聴の方はお気をつけください。


世界規模の泣いた赤鬼

「人類の8割を踏み潰す全世界規模の地鳴らしは本当に必要だったのか?」

まずはこの感想が思い浮かぶ。

イェーガー派の当初の計画通り、シガンシナ区の壁の巨人のみで小規模な地鳴らしを決行し、抑止力としておくことはできなかったのか?

たぶん、できなかったんだろうな。

世界連合はパラディー島に地鳴らしの余力が残っていることを決して許さなかったはずだ。再び人類が踏み潰される前に島を制圧し悪魔を虐殺せんとする可能性がある。パラディー島に地鳴らしという最悪の兵器がある以上、島は必ず暴力にさらされる。

それなら最大規模で地鳴らしを決行し、相手の報復する戦力を削ったうえでこちらも地鳴らしという手札を使い切ってしまえばとりあえず対等に和平交渉できる。

エレンが考えた中では最悪の中の最善手だったのだと思う。

自分の蛮行を止めることで大切な仲間たちの身柄は大陸側に保護される。なんだよ、その世界規模の泣いた赤鬼は。


あらゆるifも踏み潰す

最終回前、一緒に見ていた夫に「エレンが過去に干渉できるならそもそもシガンシナ区でお母さんが巨人に食われんようにすればいいのでは?」と言った。以前一度全部見ている夫はまあそうねえと濁したが、最終回でご丁寧にその可能性を踏み潰していった。

あらゆるifを踏み潰し地鳴らしをせざるを得ない状況に追い込んでいく。こんな穴1つなく地獄までの道を舗装してくれるとは思わなかったわ。

エレンは「俺がバカだったから」と総括したが、絶対にエレンだけの責任ではない、と私は思いたい。
エレンを祭り上げたイェーガー派、地鳴らし以外の道を示せなかったエレンの身近な人たち、島にヘイトを吐き出し続けた世界、全ての大人たちに多かれ少なかれ責任はあるだろう。


本当の敵は誰なのか


「悪魔は俺たちの中にいる」

地鳴らしが始まり、ジークの脊髄液で巨人化した兵士たちから逃げるなかでニコロがカヤとガビに言った言葉だ。

ほんまにそう。
平和な時代なら善人でいられても暴力にさらされれば、大事な人を殺されれば人は悪魔に変わる。そうでなくても自分が正義だと思えば、叩いてもいいと思う相手がいれば簡単に他人を攻撃する。

本当の敵は己の中にある。

憎しみの連鎖と暴力の応酬を止めるために、自分の中の悪魔と戦わなくてはいけない。

…と、今は簡単に言うが、いざ暴力の当事者になったときに同じことを口にできるだろうか?私は幸運にもこれまで平和に暮らすことができた。何かに脅かされることなく、差し迫った命の危険を感じることもなく生きることができた。だが、戦地のど真ん中で「戦うべきは自分自身だ」と言えるか?家族や友人を理不尽に奪われたとき、復讐しないと言えるだろうか?
進撃の巨人はそこまで問うている作品だと思う。


それでも考えることをやめない

憎しみの連鎖を終わらせるには、サシャの父が言うところの「森から出る」にはどうしたらいいのか?
奪わずに、奪われずに生きるにはどうしたらいいのか?
島の利益を考えるなら地鳴らしは必要だというイェーガー派の理屈は筋が通っている。
だが、生き残った島の人間は、地鳴らしの是非を問い続けねばならないと私は思う。
それはたとえば原爆の投下について、他に選択肢はなかったのかと問い続けるのと同じように。


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