存在と身体。
今回は、非公開のFaceBookに2014年に書いた記事からの再掲載です。
「独学で彫刻やってます」とは言っても、動物や虫や植物など愛情を感じるものしか作ってこなかった。
彫刻を基礎から学んでいる方々にしてみたらあり得ないことかもしれないけれど、この土日から初めて(石膏像でない)生身の人間の裸婦をクロッキーの上、塑造するということをしている。
私が初めて向き合う裸婦さんは、びっくりするほどお化粧が濃くて、性格もキツそうで、体型も美しいとはいえない30代くらいの方。正直美しいとは思うことができず、興味を持って向き合う自信がなかった。
でもそう思ったのはほんの束の間。台の上でポーズをとり、大勢の視線と時間の経過に耐える裸婦という対象物の無防備さに打ちのめされ、すぐになにひとつ疎かにはできない気持ちになり、全身全霊で集中した。
そして一つでも多くの発見を掴み取ろうと鉛筆を走らせ、粘土を盛る手を動かすうちに、対象にたまらない愛しさが溢れて来た。
たるんだお腹や胸のライン、まるまった肩や骨ばった頬のラインの中にも、ハッとするような美しさや、上気した、人としての生命力を感じる部分があり、その発見のたび感動に打ち震えた。
途中からはモデルさんに対する敬意の念と感謝が溢れて、20分ごとの休憩のたびに、モデル台に立つ前と降りる際のモデルさんに「よろしくお願いします」「ありがとうございました!」と自然に口をついて言葉がでた。
押し黙っていた彼女を囲む他の10人ほどの生徒さんたちも、だんだん一緒に「よろしくお願いします」「ありがとうございました!」を言うようになっていった。
美しさとは、バランスよく整っているということではない。
その人の内面が美しさに現れるというけれど、生きている人間には生きているという時間が宿り、是非もなくそれそのものが美しいのだということを知ることができた。
頭を撃ち抜かれるような衝撃だった。
写真:2014年の裸婦像試作品。大島ナビの企画で描いた椿の絵をバックに。