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正論を聞くと気が狂う。世の中が正される前に自分が狂ってしまう

この場合の正論とは、主に日常的なことをさす。
大枠(政治、経済、法律関係など)は正論でやってもらわないと困るのだ。

だからこれは日常の話。

これは自分にとっての「気づき」だったので、似たようなことを何度も書く。
最近は元・サブカルライターみたいな人も正論を言うようになった。

もちろん、奇をてらうあまり、狂ったようなことを書くような人も90年代には多かった。そういうのはやめた方がいい。
私は、そういうのを強く支持しているわけではない。

しかし、現在「サブカル」というものがあるのかないのか知らないが、少なくとも学校にレポートを提出するんじゃないんだから、ひまつぶしにネットや雑誌を見ていて、正論をかまされても困るのである。

2024年7月現在、かつての「正論」に対する逆張りみたいのがマジメに問い直され続けている時期なので、「変な理屈」は旗色が悪い。そういうのは現在、逆張りとして機能しないんですよ。

60年代頃は「学生時代には学生運動で暴れていたやつらが、就職の際にはスッ、とそういうことをやめて社会に組み込まれていった」と皮肉まじりに言われていたが、まあそこは歴史の流れと連動していたというか。
思想、つまり「どのように生きるか」という方向性が、60年代、70年代、80年代と劇的に変わっていったので、「学生運動やっていたくせに急にマジメになった」とか、「ヤンキーだったのに仕事と家族を持ってからおとなしくなった」とか、そういうことを私は別に「おかしい」とか「言ってることとやってることが違う」と激しくは思わない。
ちょっとは思いますけど(「隣人13号」大好き!!!!!!!!)。

しかし90年代からここ30年間で、「ものの考え方」が大きく変わったかというと、実はそんなには変わっていない。他人をバカだとかブスだとか言ってはいけないのは、明治時代だって江戸時代だって同じだろう。
ところが、本質は変わっていないのに、「ルール」だけが変わって行っている。
しかも、どこのだれが決めたのかも、ちょっと調べただけではわからない。

戦前~戦後、みたいな劇的なことがなかったのに、いつの間にかいろんなことがダメ、やっちゃいけないことになっている。

ということで、現状、「日常リベラル」的なことを言っていれば、無敵なんである。やや悪意を込めて言えば、「日本の学級委員長」になれる。
ほぼあらゆる時事問題や事件について、だれも文句の言いようがないことを書くことができる。
現在、「日常的なリベラルな言動」が、絶対正義。
(政治的なリベラルとなると、またいろいろとむずかしいことがあるのだが)

ネット上のリベラルは、本当に無敵だ。
右翼は「先の戦争でたくさんの人が死んだ」という事実を無視できない。左翼は、共産主義革命が起こった後に独裁化した国々を無視することはできないし、革命で血が流れたことも、「何とかならなかったのか」と言われてしまう。

しかし現在のネット上のリベラルは、過去に独裁国家を樹立したこともないし、暴力革命を起こした経験もない。いやなんか私が知らないだけで、そういうことがあったかもしれんが、それにしてもそんなに歴史を変えるほどの事件は起きてないんじゃないか?(起きてたらスイマセン)

このため「ネット上の、日常サイズに刈り込まれたリベラル」は、絶対無敵の無双状態である(一部のフェミニズムもここに含まれる)。

もちろん今の「陰謀論者」もかなりヤバい。彼らが私を脅かすとしたら「現実的に」だろう。それはそれで非常に恐ろしいことではある。
しかし、思想としては別に何も面白いところもないし、私の考えを揺るがすこともない。

あくまでも、思想、哲学、概念、人生観というところで私を追い込んでくるのは「リベラル的な」正論だ。

あ、「日常的に刈り込まれたリベラル」のアキレス腱がひとつだけあった。

それは「孤独死」の問題だ。

個人主義を広くおススメする「日常リベラル勢」にとっては、「孤独死」の問題はひどく都合が悪いのだ。

行動的なリベラリストの中には、すでに「将来的に孤独死してしまいそうな人たち」のための、互助的ネットワークを構築しようとしている人もいるかもしれないが、ネット上だけであーだこーだ言っている「なんちゃってリベラル」たちは、「孤独死する人」に対して、何の手も差し伸べないだろう。

おしまい


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