繰り返し同じこと書くのやめたい2023

死ぬほどの猛暑、というより酷暑の中、気ままにnoteのテキストを書いていたら「90年代初頭あたりに流行った『新保守主義』」に対する怒りについてまた書いてしまった。
なので、いったん引っ込めた。
ほおっておくと、あの頃の新保守主義についての怒りを繰り返し、書いてしまうのだ。

80年代から90年代いっぱいくらいまでは、60~70年代中盤くらいまで流行った「新左翼思想」に対して、それをどうにかしてアップデートしようとするか、逆に全否定して保守思想に転向する、というのが、社会思想関連の(少なくともサブカルがらみでは)大きな流れだった。

90年代の根本敬の、逆張りなのか本気なんかわからない言動は、おそらく60~70年代の新左翼思想の行き詰まりを、意識的にか無意識的にか突破しようとした試みだったはず。
村上春樹がどこかに書いていた「やわらかラディカリズム」という考え、すなわち暴力革命で一気に状況をひっくり返すことより、日常の中で深く静かにラディカリズムを浸透させようという「運動」への言及もそうした試みのひとつだったと言えるだろう。
他の90年代サブカルも似たような経緯の結果、いろんな試みがなされているので、少なくとも70年代初頭、連合赤軍事件あたりまでさかのぼらないと、90年代サブカルがなぜあのようなかたちになったのかは考察できないはずだが、それはまた別の話。

「新左翼」批判については、いろんな人がやっているので触れない。
それよりその反動から来た「保守反動」の言説に対する根本的な批判はあまり観たことがないが、正直、自分には何の役にも立たなかった。

80~90年代、新左翼的な言説が苦しかったのは間違いない。なにしろ日本では70年代に過激派内のリンチ事件や内ゲバなどで凄惨なことになったし、それで世の中が良くなかったかというと、そういう実感を一般市民に与えることはできなかった。
いったん負けてしまったものを「まだまだやれる!」と言い続けるのは、苦しい話ではある。
しかし、だからといって、「新左翼ってロクでもないよね~」という一群の言説も、自分には何の役にも立たなかったね。

なぜかというと「保守派の言説」というのは「まじめに生きよう!」以上のことが言えないからだ。
後は、左翼勢力に対してカウンター的なことを言うしかない。
「まじめに生きよう!」と言われたら「そうですね」としか言いようがない。はい、おしまい。
それに気づいてから、保守思想家のどんな著作を読もうと、少なくとも政治的なことではなく、日常レベルのことはどれを読んでも同じで、そんな本を読むくらいなら、ジャッキー・チェンの映画や美少女アニメやAVなどを観ていた方が、よほど楽しいのである。精神衛生にも良い。

もちろん、保守系の思想家、文筆家の中には不良ぶったことを書く人も多かったが、本当、三十歳すぎて不良ぶったこと書いて、恥ずかしくないのかよ? と思っていた。
(いちおうつけくわえておくが、山本夏彦と西部邁は保守系の文筆家としてはまだ傾聴すべき点があった。ただし、山本夏彦の「わざと女性差別的な言動をする」という態度は現在ではもうジョークとしても通用しないし、西部邁の自殺は一般人には理解できないだろうし、潜在的な自殺願望を持った人を危険にさらすという意味でも批判者はいるだろう。私がここで言う「保守系の文筆家」とは、彼らより10歳以上若い、全共闘運動からの挫折組よりも若い世代の人たちのことである。)

んで、まあ「さすがに同意できないな」という言説は別に保守的なもの以外にもいろんなものがあるが、「考えただけで怒りが湧いてくる」とか「胸がムカムカしてくる」というようなことはあまりない。

やはり「自分が心底、苦しいとき、生きづらさを感じているときに、まったく、ひとつも、ぜんぜん、役に立たなかった」という「経験」になってしまったので「どうでもいい」とは思えずに「怒り」という感情になるのだろう。

なお、90年代に偉そうなことを言っていた保守的言説を繰り返していた人たちの、ある人は現在ネトウヨになってしまっているし、別の人は女性差別主義者に成り下がってしまった。
ま、それは保守とか革新とか右翼とか左翼にかぎったことではなく、どんな立場にも起こりうることだ。トシをとると頑固になって、わけのわからないことをいう人も増えてくる。

自分も気を付けないとなぁ。

おしまい


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