厄年に厄払いに行ったときの話

42歳の厄年の際、神社でお祓いしてもらった。
私の神仏に対する考えは話すと長くなるが、42歳の厄年にかぎって言えば、親が昔から、
「42歳頃は、身体的にも社会的にもやばい年齢」
と繰り返し言っていたのが、気になっていたのだと思う。

私個人は「占い」を、たとえば何千人鑑定しました、みたいな「経験則」を根拠とする方法や、「手相は統計学」という考えには与しないのだが、当時、母親が高齢であり、何かと心配なので自分の厄払いくらいはやっておこうと思ったのだ。

それで、知り合いで神社につとめている人に「厄払いってどうやってやるの?」と質問した。
すると「まあ、明治神宮とか、メジャーなところに申し込むのが無難なんじゃないですか」と言われ、実際そのとおりにした。

それはそれで済んだ話だが、その「厄払いってどうやってやるの?」と聞いた神社関係の知り合いは、心なしか迷惑そうだった。あるいは、不満そうだった。
その人は、ツイッターにも「みんな、ふだんは神社なんか行かないのに、なんで厄払いだけはするんだろう」みたいなことを書いていた。私に対するあてこすりだと思いたくはないが、私がそのツイートを読んで、不快に思っても不思議ではないものの言い方である。

正直、このツイートは個人的に大変不快だった。
そもそも「厄年」を規定し、厄払いを実行しているのは神社側である(厳密には違うのかもしれないが、そう取られても仕方がない)。
こっちだって、「厄年」のことなんか、知らないなら知らないで済んだ話だ。
なお、厄年には男の場合三種類あるが、42歳とは、一般的に仕事が充実してきたり、結婚したり、子供ができたりする年齢である。
別の観点で言えば、ミドル・エイジ・クライシスの入り口だ。
そんなこんなで、どうしてもやっておかないと気持ち悪くなり、お祓いをしたのだが、それに対して、神社関係の人から、
「ふだんは神社に来ないのに、厄年のときにだけ来やがって」
と言われたら、私がどんな気持ちがするかわかりますか?

本当に不快だった。

同じことは母の日のカーネーションにも言える。
近所の花屋にカーネーションを買いに行くと、
「どうせ一年に一度しか来ないくせに」
という態度を、ジジイ店主に取られるのだ。

こんなジジイ、ケツの穴にバラ一輪でも活けてやったらさぞかし風流だろうと思ったが、犯罪になってしまうので我慢した。
でもジジイの合意なら犯罪ではなくなるので、花屋のジジイ、ケツの穴に花を活けてもらいたかったら、連絡に来いよな。

最初に断っておくが、私は「完全なる無神論者」ではない。
まあ初詣に行こうと言わたら行くし、クリスマスだって祝う。
葬式も、墓参りもする。
まあどうせ他の凡人どもは、何も考えないでやっているのだろうし、大槻教授は「無神論者」としてやっていない(自分の墓もないらしい)らしいが、私としてはぼんやりとした「何か超越的なもの」に対し、半信半疑で、おぞずと、個々の行事をこなしているのだ。

これはこれで、こっちだって骨なのである。

だれかが言っていたが、こうした「厄年にお祓いをしないと何となく気持ち悪い」とか「仏像を破壊したら気分がよくない」というような感情は、畳での生活を何十年も続けた後、「靴のまま畳であがれ」と言われると、非常に気持ち悪く感じることに近いという。
要するに、幼い頃からの「習慣」の問題に帰結する部分も大きいのだ。

だいたい神社の「お祓い」だって花屋のカーネーションだって「客寄せ」のためのイベントという要素はあるだろう。
それを、関係者がカマトトぶって、
「なんでこういうときにだけ来るんだろう」
じゃねーっつーの!!

最近は関東に進出して来た「恵方巻」や、ハロウィンにみんなわけもわからず騒いでいるが、やがてこれが定着すれば「やらないと何となく気持ち悪い」というふうになるだろう。
それは信仰とは、まったく関係ないとは言わないが、あまり関係がない。

そんなことは、あげたらきりがない。

もっと言えば、ラムちゃんが鬼であったり、「鬼滅の刃」の敵も鬼だったり、「ゲゲゲの鬼太郎」に出て来る「妖怪」を、フィクションとしてではあれみんなが普通に受け止めていることにも、民間信仰にからんだ文化的背景があるはずなのだ(どうも例が古臭いが、そういうことだ)。

実は厳密な意味での「無神論者」は日本には少ない。
おそらく日本は基本的に一神教でないため、それだけ「神と対峙する」という緊張感がなかったからではないかと思うが、まあその辺は調べていないとわからないですね。

おしまい


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