映画・「ザ・フラッシュ」

映画

・「ザ・フラッシュ」

スーパーヒーロー、ザ・フラッシュことバリー・アレンは、かつて母親が強盗に殺害され、その罪を疑われ父親が刑務所に入っており裁判中。
超光速で走ることによって過去に戻り、母親の殺害を阻止するが、そのことによって時空が乱れてマルチバースが生じ、バリー本人は自身が18歳の時代から戻れなくなってしまう。

バリーがやったことでめちゃくちゃになった、バリー18歳当時の「新しくできた世界」では、スーパーマンもアクアマンもサイボーグもおらずバットマンも引退しているのに、ゾッド将軍が地球侵略にやってきた。

バリーはなんとかしてゾッド将軍と戦おうとするのだが……。

DCコミックスの映画、最近は何本か見逃しているのだが(「ブラックアダム」、「シャザム! 〜神々の怒り〜」など)、マーベル映画が軌道に乗りすぎているため、DCコミックスの映画化作品については若干、同情的には感じている。

おんなじヒーローものだから、マーベルとの差別化もむずかしい。
ザ・フラッシュの「大人になりきれないゆえの悩み」は「スパイダーマン」に通じてしまうし(今後、映画化される「ブルービートル」も「スパイダーマンっぽさ」をどう避けるのかがポイントになるのじゃないか?)、「自身の欲望で歴史を改変しようとして大混乱になる」という展開も、マーベル系では数回あったはず。

でもまあ、それも踏まえて本作はがんばっていたとは思う。
しかしPCかまびすしいハリウッド映画でも、いまだに「童貞イジリ」はみんなでワッハッハ、楽しいねということらしく、まあ日本人でもアメリカ人でもそういうところのオツムはたいして変わらないね。

で、時間がどんどんめちゃくちゃになっていく過程は、あまり感心しない。
変貌した世界において「ジャスティス・リーグのいない世界でゾッド将軍と戦おう」と決意するバリーに、少年から大人に変貌するところが見えてちょっとだけ盛り上がるが、それは「母親の死を回避させる」という妄執(若い方のバリーの妄執)によって、グチャグチャになってゆく。

よくわからなかったが、この作品ではバリーが改変させた、バリーが若かった頃の宇宙は滅亡してしまったのか?
 
何が言いたいかというと、本作も最近のスーパーヒーローものによくある、
「ヒーロー当人のヘマを当人が回収する」
パターンからは逃れられなかったということだ。

個人的にはこのことは、「スーパーヒーロー映画では敵対的なイデオロギーを持つ者との対立」をテーマの中心に据えられないのか、観客も興味がないのか」と思わせる。

「ザ・フラッシュ」の本来の活躍は、冒頭の崩落するビルから超加速で落下していく数人の赤ん坊を救うところにある。
そこは冒頭で済ませてしまって、後はえんえんと、フラッシュが自身のやったことの尻ぬぐいに終始してしまうのだ。

私からするとこれは「番外編」にカウントされるような話だが、もう今はこんなのがトレンドなんだろうな。違うの?

ところで、サッシャ・カジェ演じる「スーパーガール/カーラ・ゾー=エル」があまりにもカッコよく、美しく、色っぽかった。
カーラ・ゾー=エルを見るだけでも映画館に行った価値があった。

なお、ラストの法廷の、映像が変化していたシーンがよくわかりませんでした。

おしまい

いいなと思ったら応援しよう!