(創作)仮死の少女アワスの復讐
(ひとりごと)
ねえ、聞いてる? 聞いてないか。
めちゃくちゃな悪夢をみて恐ろしさで胸がいっぱいになって飛び起きるのって、誰にでもあることなのかな。目が覚めている間には悪いことをしたり誰かを傷つけたりして、それで平気でいられるような人にも。そういう人にかぎって夢なんかみないでぐっすり眠っているかもしれない、悪いやつほどよく眠るって言うしね。
わたしはそう悪い人間じゃなかったって、自分では思ってる。というより、まだ良い人にも悪い人にもなれていなかった。だってせいぜい十何年しか生きてなかったからね。
本当のことを言うと嫌いな子にはかなり意地悪で、大人の見てない所で殴ったりしたし、カエルや虫を面白半分に裂いて殺したこともあるから、悪い子供だったかもしれないな。
恐ろしい夢をみて、心臓がぎゅっと痛くなって、叫ぶ代わりに大きく息を吐き出しながら目を覚ます。生きてた間にはそういうことが何回かあった。
起き上がって、ああ、なんだ、夢か……。ってほっとして、呼吸がゆっくりに戻っていって、大抵はすぐに寝直しちゃうの。そのときって少し気持ちいい。悪い夢から抜け出して、これから別の夢をみるんだ、って、寝入りながら安らいでる。
聞いてる? 寝ちゃったの? ねえ。
(目覚め)
ところがその日の悪夢だけは、わたしを解放してくれなかった。
長々しくて暗い夢をみていたのは覚えている。内容はわからない。ただずっと、この場から逃げ出したい、自分ではなく別の何かに成り代わりたいと願いながら泣き叫んでいた。口を開けて息を吸うと頬に流れている涙が飛び込んできて、喉が痛んだ。
そして、大きくひとつ咳をしながら目を覚ます。まぶたを開くと固い床の上にいた。屋外だった。広げた腕に、ざらざらと砂の感触がある。
「おお、起きた起きた」「目が明いてる」「まだぼんやりしてる」「かわいいね」「かわいい」「どうする?」「どうしよう」
映画のスクリーンみたいな平べったい曇り空が視界いっぱいに広がっているのを、しばらく眺めていた。見えるのはそれだけ。その外側のどこかからささやき合う声がする。
「自分で起き上がるかな」「起き上がれるかな」「手伝おうか」「手を引っ張ろうか」「肩を押そうか」
声たちは楽しそうに相談している様子だ。わたしのことを話しているんだろうか? 頭を動かして辺りをうかがいたかったが、うまく身体に力が入らない。
「足を押さえるよ」「頭を支えとく」「くすぐっちゃおう」「耳をふーってしよう」「起こすよ」「起こそう」「せーので」
いったい何人いるんだろう? たくさんの手がわたしの身体めがけて伸びてきて、たちまちに上半身だけ起こした格好にさせられた。お尻が床をすべって前へ逃げないように、つま先から膝のあたりも手で固定されている。十何人かの手に全身をあずけて、人形になったような気分だった。
「起きた」「起こした」「話せる?」「見える?」
「あのねえ! 覚醒したばかりじゃ動けないに決まってるでしょう、もう」
ひそひそ声の間に、やや遠くから鋭い声が届いた。
それを聞いて、気づいたことがある。
「本当にやめなって! だいたい、増えすぎじゃないの」
「だって楽しみで」「楽しくなっちゃったんだもん」「早くお話ししたいよ」
「驚かせるだけでしょう。順番に、わかりやすく、状況を説明しないと」
鋭い声の主はささやき声たちにぶつくさ言いながらわたしの目前へ歩み寄ってきた。
「はい」「はい」「はーい」「でも説明は苦手」「説明むり」「ケズルちゃんおねがい」
気づいたこと……ひそひそ、ささやいているのは、全て同じ声だ。
「最初からそのつもりよ……。やあ、はじめましてかな、こんにちは」
意識して強めのまばたきを二度、三度と繰り返すと、一面の薄曇りだった視界が徐々に色分けされて、こちらに向かって屈みこんだまま微笑んでいる女の子の像を結んだ。肩からこぼれるしっとりした黒髪が美しい。
「私のことはケズルって呼んで。生前の名前は忘れた。それから、あなたを無理やり起こした迷惑な奴はフユル」
黒髪の、鋭い声の少女ケズルは、そう述べ立ててから急に口をつぐむと、周囲を見てみるように目顔で促してくる。
さっきよりは身体の自由がきくようになっていた。ゆっくりと首や頭を動かして視線を巡らせると、
「フユルは、増えちゃうからフユルです。よろしくね」「よろしくね」「よろしく、ふふ」
同じ顔同じ服装の少女が、合わせて二十人近くいた。わたしの身体のあちこちを手で支えてくすくす笑いを漏らしているのが、すべて同じ人物であった。首筋の長さで内巻きに整えた栗色の髪。愛くるしい印象の子だった。
「まあ増えた分は私が削るから気にしないでもらって、と」
そう言うとケズルは、わたしの方へずいと顔を近づけてくる。
「いろいろ説明しなきゃならないんだけど、先にあなたの意思を確認したいの。あなた、このまま死にたい? それとも復讐したい?」
彼女の話していることが、わたしにはよく飲み込めなかった。このままだと死ぬ? 復讐って何?
どういうことなの? と尋ねようとしたそのとき、けほっ、と声の代わりに咳き込んだ。
喉の奥に、涙の塩辛さが残っていた。
「復讐したい。……でも、誰になのかわからない」
何も飲み込めていないまま、いがらっぽい喉から声を絞り出していた。
「オッケー、よろしい」
ケズルはウインクで応える。
ふふふ、ふふふ。ふふ……。
周囲からフユルの、約二十人ぶんの含み笑いが巻き起こってわたしを包み、その中のひとりが耳元にふうっと息を吹きかけた。
(仮死の少女たち)
夜になるのを待って、病室を見にいった。
ベッドの上に置かれている身体は、たしかにわたしのものだった。額から上は果物みたいなネットで、鼻から下は何かホースのついた器具で覆われている。
「どうしてこうなったか、まったく覚えていないのね?」
と、ケズルはわたしに何度も尋ねた。
何も覚えていない。ひどい悪夢をみていたような気がするけど、具体的に何があったのかはわからない。ただ、気がついたらざらざらする床に寝ていた(この病院の屋上だよ、とフユルが教えた)。そう答えるしかなかった。
病室のわたしは、全体に、自分で思っているより小さく見えた。見ているうちに細く細くなっていってシーツの間に消え入るんじゃないかという気がした。しかしこうして入院して何かの治療を受けているということは、死体ではないのだろう。
「わたしって、今、これ、幽霊なの?」
病室から屋上に舞い戻る。自分の胸元を手のひらで示しながら、二人に尋ねた。生きている実感もなく、かといって死んだような感じもしなかった。
「そういう考え方で行けば、生き霊かな」
ケズルはわたしに与える言葉を、考え考え、慎重に選びながら話している様子だった。
「爪を噛んじゃだめだよケズルちゃん」「代わりに飴をあげる」「あーんして」
二十人ほどいたフユルは、三人になっている。一人がケズルの胸元に寄りかかり、一人が反対側に座ってお菓子の袋を開け、もう一人は真後ろでケズルの髪の毛を編んでいる。
「見てもらったとおり、あなたの身体はまだかろうじて生きてる」「かろうじて……」
「医者の話してるのを立ち聞きしてきた。外傷性出血性……だったか。病気じゃなくて、ケガが激しすぎて意識を失った状態。何かの事故に遭ったかのーせーがひゃい」
フユルが口に無理やり押し込んできた飴を含みながら、ケズルは話を続けた。
「目を覚ます可能性は『ないとは言えない』って話してた」「……」
「まあ『ないと思っておけ』って意味よね」
フユルはわたしにも飴をくれた。ただし手渡しだった。さっと向き直ってただちにケズルの胸元に戻っていく。これはわたしが嫌われているというわけではなく、ケズルにくっついているためだった。
フユルは放っておくと次々と増えてしまう。コピーアンドペーストされた画像みたいに自己増殖していく。
対してケズルは「いろんなものを削ることができる」という。フユルと手をつなぐ、頭をなでる、など、触れている間はその増殖が収まって、一人のフユルになる。「じつはその間もどんどん増えているけど、同時にどんどん削ってもらっているから一人に見えるだけ」フユルが可笑しそうに教えてくれた。今は「三人がいい」とケズルにねだって、調節してもらっている。
ケズルは飴をバリバリ噛み砕きつつ言う。
「おそらく、意識が戻らないままだんだん弱って死ぬだろう、っていう状態なわけ」
「で、ここで今こうしてるわたしは、生き霊ってこと……」
すっかり暗くなったけれど、日中に空を覆っていた雲はどこかへ流れ去っていた。満ちる寸前なのか欠けはじめたのか、太ったレモンみたいな形の月が妙に明るい。
「何だか全然、実感がない。というか何の実感もないな」
ぎゅっと腕組みをして、自分自身を抱きかかえるポーズを取ってみた。別に寒くもないし暑くもない。今は、何の季節なんだろう?
「私たちも、そう。生きてる感じもしないし死んでる感じもしない」
ケズルはため息混じりに言い放つと、お菓子をつまんでいるフユルの膝の上にどさりと倒れ込んだ。髪を編んでいたのと寄りかかってうとうとしていたのと、二人のフユルは慌てふためきながら一緒に倒れる。どのフユルも、やがてけらけらと笑い出した。お菓子の袋が逆さまになって、辺りには色とりどりの棒付きキャンディーや金銀の紙に包まれたチョコレートが散らばって月の光を跳ね返した。
「寒くないでしょう? 今は十二月よ。いずれ雪も降りそう。生身の身体だったらこの時期の夜に外でこんなふうにごろごろしてたら凍死よ。お腹も空いてないでしょう。お菓子は気晴らしに食べてるの。その辺の店から失敬してきてね。私たちのこと、誰にも見えないんだもの、見える人もいるから気をつかなきゃだけどね。眠ることもあるけど、ずっと眠らなくても平気。おしっこも、うんこもしない。生理もない。病気しないしケガもしない」
「お化けは~しなない~~」
フユルの誰かが歌いながらキャンディーを掴んでは空中に放りはじめた。
「ケズルとフユルも、生き霊ってやつなのよね?」
わたしは、確かめるように尋ねたが、
「私らは違うのよ」
「しんでるよ」「死体を見てないけどしんだよね」「私たち」
「夏に、心中したのよ。あっちの淵に入ったの、二人で」
そう返され、しばらくは何も言えなかった。
フユルにもらった飴を食べてみるとたしかに甘い。でも「甘いと感じている」だけという気もする。甘いと感じているという気がすると思っているだけなのかもしれない。
死んだも同然なのか。ケズルを真似て、床に身を投げ出すように寝転んだ。
「そんな顔しないでよ」
彼女はもつれた黒髪の間から目元を覗かせた。笑っていた。
「生き霊とかお化けじゃなくて……『夢』っぽいなと思ってるの。今の、私たちの状態ね」
「夢」
「小さい頃によく見なかった? 明晰夢っていうんだって、ああこれは夢だなって夢みながらわかってるやつ。で、人によっては夢を思い通りに操れるの。かわいい女の子と会いたい! って思ったら出てくるし、空を飛びたい! って思ったら飛べたりね」
「飛ぶの?」「飛びたい」「飛ぼうよ!」
三人のフユルが口々に叫んだ。
「よし」
やおら、ケズルはわたしの腕を引き寄せて絡ませた。横たわったままだ。反対の手ではキャンディを撒いて踊っていたフユルの足首を乱暴に掴む。
「楽しくやろうぜ!」
フユルが一人の姿にまとまると、手のひらいっぱいの金平糖を空中へ投げ上げた。
打ち上げ花火が終わるときのようにそれらが散り落ちて、病院の屋上の床にバチバチと音を立てて転がったであろうときには、もうわたしたちの姿はそこから消えていた。
ケズルは空間も削ることができる。今いる場所と行きたい場所の「間」を削り飛ばして、一瞬でどこへでも移動できるのだった。彼女に手をとってもらっていれば、わたしもフユルも一緒に空間移動ができる。わたしの身体がある病室にも、そうして行ってきた。
三人で、病院から少し離れた空中に移動した。その少し先の空中に移動。またその先に。これを繰り返すと、まるで飛ぶ鳥になったように進んでいける。
眼下には、夜の街並み。まだ寝静まる時間ではないのに、明りは少ない。さっきまで過ごしていた病院より高い建物は見当たらない。平坦で、つまらない街だなと思った。
でも、特別に行きたい場所なんてない。ただケズルの腕にしがみついて、わたしは冬の夜空を進んでいった。月がまぶしく輝く方へ。
こっそりと振り返ると、病院の向こう側になだらかな小山が、真っ黒な影のかたまりのように見えた。
ケズルが「あっちの淵」と言いながら指さしていたあたり。
(夢の日々)
ひとまずは、この二人の少女の復讐を見学して過ごすことにした。
「こうなる前の記憶がないんじゃ、誰に復讐するか決められないものね。私らに付き合ってよ。この街をうろちょろしてるうちに何か思い出せるかもしれないし」
やめて。ヤメテヤメテタスケテ。ユルシテ。四十歳ぐらいの太った男が足元で這いずっているのを無視して、ケズルが言った。男の白いワイシャツは、腹側が泥と吐瀉物まみれだ。
許して。ユルシテ……。呟く声は、同じ言葉を繰り返しすぎたせいで言う側にも聞く側にも意味のないものになっている。足のどちらかが動かないのだろう、這って逃げているつもりで地面をぐるぐる回っているが、さっき自分のまき散らした吐瀉物を手や腹になすりつけて広げるほかの効果はないようだ。
「虫もこんな感じになるよね」
と素直な感想を漏らすと、フユルが「なるねえ」と頷いた。
二人の日頃の活動は「うろちょろしてる」などというものではなかった。一度につき一人ずつ、時間をかけて追い詰め、いたぶる。
手口のバリエーションは多くない。十人ぐらいに増えたフユルが標的を囲んで少しずつ脅かす。こちらの姿が見えないのをいいことに、後ろ髪を引っ張ったり乗っている車の窓を叩いたり、けっこう楽しんでやっている様子だ。石を投げつけたり、メッセージになるものを残したりと、フユルの悪戯はエスカレートしていく。どこまで逃げられても、ケズルと手をつないでいればすぐに追いつける。
追い詰められたとき虚勢を張って怒鳴り出すタイプの奴は長生きできないと思う。見てきた標的には男も女もいるけど、「何が望みなんだ」「自分はこんな目に遭うような行いはしていない」などと虚空に向かってキレるのが男ばかりだったのは不思議だ。
今這っているのもそのタイプだった。フユルにたっぷり一パックの牛乳を浴びせられると、普通に生きている人間が犯人でその辺に隠れていると決め込んで叫びはじめた。いわく、問題にしてやる、ただで済むと思うな、お前らはまともな人生を歩めなくなったぞ。
「フユル、交代、しようか」
ケズルが進み出て二分後、男は片側の肢をむしり取られたバッタみたいに這い回ることになった。
「削りたい所をイメージするだけ。簡単よ」
そう言って振り返り、
「出血が多いと死んじゃうからね。加減するのが、ちょっと難しいかも」
と付け加えた。
「死なないようにしてるの?」
「してるよ」
ケズルの背にもたれかかりながら、フユルが答えた。今日の復讐にはもう飽きてきた様子で、うめき続ける男から視線を放して、自分の髪の毛を指先に巻き付けて遊んでいる。
「見てきたでしょう。私たち、誰も殺してはいない」
「『死んだほうがマシ』って泣いてた子はいたけどね」
「今日の、この人は誰?」「担任。フユルのクラスの」
「牛乳で思い出さなかったねえ」
「何をされての復讐?」
「質問タイム終わり! 遊びにいこうよ」
「海行きたい」「いいね」
ケズルに抱き寄せられ、まばたきののちに砂浜に立っていた。
フユルが歓声を上げながら波打ち際に沿って駆け出してから、ケズルはこっそり教えてくれた。死の直前まで、フユルが学校でいじめられていたこと。大人たちは無関心を通し、加害はやがて授業中にまで堂々と行われるようになった。給食の牛乳を机いっぱいにかけられたときは、「次は移動教室だから早く掃除しなさい」と雑巾かけを顎で示したそうだ。その担任教師はずっとその場にいたのに。
「全部、後になって聞いた話。私は、その頃もう学校行ってなかったから、そんなことになってるのに気づけなかったんだ」
ケズルは流木の上で、膝の間に顔をうずめるように座り込んでそう語った。黒髪が強い海風にねじれている。
「質問してもいいの?」
「真面目だな。フユルに聞かせたくなかっただけだよ、さっきは」
「復讐したい相手は、まだいるの?」「いっぱいいるよ。しばらくは退屈しない」
「復讐がぜんぶ終わってからは、どうするつもり?」「考えてないなあ。他の街に遊びにいってみようか。三人で一緒にさ」
「いいね、それ……」「まだある? 質問」
わたしは少し黙り込んで、冬の海を眺めながらケズルの言葉を頭の中で整理した。海も砂も灰色がかっていてもの悲しい感じがする。白く泡立った波がいくつもいくつもこちらへ迫っては広がって引き下がっていく姿は、それぞれが意思を持った生き物みたいに見えた。
海ってもっと素敵なものだと思い込んでいたな、と、ぼんやり考えた。
日暮れ時が近い。この状態でなかったら、ケズルの言う「夢みたいな」状態でなかったら、風の冷たさにすっかり参っていただろう。
「昆布が落ちてた」「靴に砂が入った」「犬がいた」などを口々に訴えながら、八人になったフユルが駆け戻ってきた。
質問をためらったのは、それがたぶん聞かれても困ることだからだ。
―――わたしたち、ずっとこのままなのかな?
「犬だけでも見てほしい」とフユルが主張するのでついていくと、死んだ犬だった。
柴犬かそれに似た雑種で、首輪がついている。死んでからそう日にちは経っていないだろう。毛並みがあまり荒れていない。まだ息があるのかもしれないと、最初は思った。
「いや、死んでると思う。見てあれ」
ケズルが指した先は砂浜からコンクリートの遊歩道を上った所。休業中の海の家が並んだあたりに、同じ犬がもう一頭いた。いる位置がおかしい。建物の屋根のさらに上の空中に、ぴたりと静止したまま浮かんでいた。合成を間違えた写真みたいだった。
「死骸を埋めてあげようよ」「賛成」
物置小屋から拝借したシャベルで即席のお墓を作った。「私が土を削れば」と言いかけたケズルを「こういうことはちゃんとやらなきゃ」とフユルが制した。三人で黙々と土を掘り返して、犬を埋めた。墓石の代わりに、拾い集めたシーグラスを並べる。
「道に迷わずに、天国に行けますように」
「フユル、柏手を打つのは神社よ、初詣とか」
「そこは何でもいいの。なむはちまんだいぼさつ……アーメン」「何でもよすぎないか」
「心を込めて見送ることが大事なの。一緒に遊びたかった、こんなところに一人きりでさみしかったね、安らかに眠ってください。というような心ね」
ケズルとわたしも、それに倣って黙祷した。
振り仰ぐと、中空に張りついていたあの犬の姿は消え失せていた。「ね?」と言ってフユルがにっこりした。
「誰か一人でもいいのよ」
その後も二人の復讐は続いた。フユルをいじめていた子たちは、わたしと出会う前に「済み」だったので、教師を始めとした大人たちにターゲットは移っていた。
セクハラした塾講師、えこひいきしたピアノ講師、自宅に上がり込んだカウンセラー、暴言を吐いた親戚、万引きの濡れ衣を着せてきた店員、横柄だった警察官、などなど、ネタは尽きなかった。
わたしは二人にくっついていって、それら復讐の様子をじっと眺めていた。姿の見えない少女たちからの暴力に怒り狂う者、錯乱する者、不安や恐怖に耐えかねて自滅に走る者、リアクションは多様で見飽きなかった。
けれど、特に手伝えることはない。わたしには、二人みたいな謎の能力がないのだった。
そして、街のどこをうろついても、この状態になる前の記憶が戻る気配はなかった。
―――ずっとこのままなのかな?
(ふたりを)
変化はフユルの身体に訪れた。本当の身体はもう死んでいるので、この言い方でいいのかわからないけれど。
ある日、「なんかうまく増えられなくなった」と言い出した。
「調子悪い……。疲れてるのかもね、なんてね」
そう言って笑ってみせた。そのままケズルの膝枕でごろごろして動かないので、その日に予定していた復讐は延期された。
窓の外では雪が降り続けていた。じっと見上げていると羽虫の大群みたいで気持ち悪い。「寒くはないけど見た目が寒くて落ち込むよな」とケズルが空を舞うそれらに文句を言ったのをきっかけに、ビジネスホテルの空き部屋に忍び込んで過ごすことにしていた。
テレビ見よう、いっしょにお風呂入ろう、ウノやろう、などなどフユルの思いつきに従って遊んでいるうちに、外が暗くなってきた。
「コーラが飲みたいです」
フユルがわたしのほうを見つめてそう言う。
「コーラを、どこかからもらってきてくれませんか。お願い」
彼女の気まぐれや要望を真っ先に受け止めるのはいつもケズルで、わたしはそれをサポートしたり見守ったりしていた。だからその頼み方に少しびっくりした。口調も変だった。
「ええ、はい、うん。コーラね」
「待って待って普通のじゃなくて、あの、チェリー味のやつ! ですよ」
「そんなのあるの?」「ある。ぜったいに、あるのです」
「どこに」「それは忘れましたですけども」
そう言ってケズルの肩にしがみつくと、顔を隠した。しがみつかれた方は笑い出す。
「ごめんね。おつかい、頼まれてくれるかな」
振り返り、意味ありげにまばたきしたのを見て、わたしは頷いた。
「チェリー味のコーラね。ケズルは何かほしいものある?」「アメスピのターコイズ」
「冗談でしょう」「そうだよ」
部屋のドアをそっと引いて、廊下に出る。
「急がなくていいからね。気をつけて……」
ケズルがフユルの背を撫でながら言うのが、ドアの隙間越しに見えた。
ここからは一人きりだ。雪降りしきる歩道を進んで、幹線道路に出た。
(ショッピングセンター、輸入雑貨店、お酒の量販店……)
しばらくはどこでチェリー味のコーラを見つけられるのかを考えていた。後で考えると真面目というか、単純すぎた。
ケズルの能力の恩恵がないので空間移動はできない。でもわたしだって誰からも姿が見えないし寒さも疲れも感じないのだから、おつかいぐらい簡単にどうにかできるはず。思案をめぐらせた結果、モール行きのバスを見つけて本来の乗客と一緒に乗り込んだ。何の能力もないので、どうにもやることが地味になってしまう。少し情けない。
モールは今年オープンしたばかりだそうで、ちょっとどうかと思うくらい人里離れた場所に建設されていた。三人で遊びにきたことがあったが、とにかく売り場が広大だったことしか思い出せない。まあ覚えきれないほどたくさんのお店があったので、飲み物を売っていそうな所をしらみつぶしに当たってみよう。しかし遠い。まだ着きそうもない。
バスから窓外を眺めた。雪空のほかには田んぼばかりの風景だった。やがて左前方に低い山が雪をかぶった灰色の姿で迫ってくる。
(ケズルの言っていた、「あの淵」のある山だ)
二人が心中したという山、その麓にへばりつくように集落があるのも見えてきた。農家らしい感じの住宅が数軒わだかまっている。
―――誰か一人でもいいのよ。
突然に、フユルの言葉がくっきりと脳裏によみがえった。たった今、耳元でそう言われたような感じさえした。
(砂浜で、死んだ犬を見つけた日だった。フユルは何のためにそう言ったんだっけ?)
あの日のことを思い返しながら、走るバスの窓に顔を寄せる。山の麓の家々を改めて見つめる。目を凝らす。
ある一軒の前に、マイクロバスが停まっている。今、そこから、黒っぽい制服姿の男女がぞろぞろと降り立った。
玄関先には、白と紫を組み合わせた控えめな花輪が飾られている。弔花だ。
「降ります! 停まって! 降りるから」
叫んだが誰にも聞こえない。後ろの方の席で赤ん坊が泣き出した。
「ずいぶん、早かったじゃん、戻るの」
ホテルの部屋に駆け戻ったわたしを見るなりケズルはそう言ったけれど、あとは崩れるようにベッド脇に座り込んだ。
すでにさんざん泣き叫んだ後みたいな、ひどい顔色だった。目が腫れのせいで細く吊り上がっている。
「どうすることもできないのよ」
ベッドに寝かされているフユルは、見たことのない状態になっていた。これが本当にあのかわいらしい女の子と同じ人物だとは思えないほど、変わり果てている。
変わり果てるというより、変わり続けていると言ったほうが正確だ。彼女は自己増殖を続けていた。ただ、その増え方がこれまでと違っていた。別々の個体にならない。
「ケズルちゃん、ケズルちゃんケズルちゃんケズルちゃん、そこにいる? あの子も? 戻ってきちゃったの? ねえねえねえええどうしようどうしようケズルちゃん、やり方がわからなくなっちゃったのわからないの、一人のままいろんな所が増えてくの増えてく、苦しい苦しい苦しい! 苦しいよ」
ぼこり、ぼこりと音を立てて彼女は部分ごとに増える。顔から別の顔、腹から別の腹、手足からそれぞれ別の手足が腫瘍のように膨らんで生えてくる。全身が波打つようにうごめいては、パーツを闇雲に継ぎ足した悪趣味な改造人形の姿を次々に見せつける。衣服はほとんどがとうに張り裂けていた。
待って、待って、と上ずった調子で声をかけながらケズルはその手のどれかを掴む。
「削ってる、ずっと削ってるんだけど、増えるスピードに追いつけない」
「ケズル、お願いがある」
「削っても、削っても削ってもだめなの」
「犬は空中で止まることができていた」
「削っても追いつかない、もうたぶん脳まで」
「ケズルちゃんおねがい説明は苦手説明むり説明説明説明できないの、増えちゃうからフユルですよろしくねよろしくねよろしく、ふふ、ふふふふ、復讐したいよね復讐復讐をあいつら全部に復讐して思い知らせて追い詰めて復讐を虫みたいに這いつくばらせてやろうって約束したよねだから爪を噛んじゃだめ飴を噛んじゃだめ飴飴飴飴飴飴飴飴はい飴ですよ、あーんしてあーんって、あーんあーん。あああ、あ」
フユルの両の目から大粒の涙が、と言いたかったが、見るとすでに目が六個はあった。そのうちの一組が何か求めるようにわたしを見つめると、三重になった背中のほうへ涙を引きずりながら移動していった。
「ケズル、落ち着いて聞いて」
「削っても削っても、どうしよう、これ、こんなにフユルが苦しんでるのに、どうしよう」
「昆布の海いったよね波が波波波って波で犬の靴に砂が入ってて犬だけでも見て! 犬だけでも見なさい犬を! 埋めてあげようって言ったよねケズルちゃん犬犬犬犬を噛んじゃだめだからねお願いですよお願いお願いお願いします本当に犬だけでも許して、ユルシテヤメテヤメテヤメ」
誰もわたしの話に耳を貸さない。ケズルの肩をつかまえて声を張り上げた。
「落ち着いて、話を聞いてってば!」
「今このこれでどう落ち着けって言うの!」
「やれることはまだあるから! 頼むから試してみて!」
フユルの絶叫をバックに怒鳴り合ったら、ケズルの瞳に少しだけ光が戻った。
「……何でも試すわ、言ってみて」
「わたしの命を削って。病室で寝ているわたしの身体を、今すぐ殺して」
増えたり、削ったりという能力を宿した少女二人と、特別な能力のなかったわたしとの違いは何なのか。「生きた肉体が残っているかどうか」ということしか思いつかなかった。
ケズルはためらっていたけれど、フユルの苦しみ様がますます激しくなり膨れ上がった身体がベッドから垂れ落ちてバスルームまで及んだのを見て、言うとおりにしてくれた。
「……削ってきたよ」
こちらに目を合わせずに、つぶやくように言った。
「本人の意思だからね! 気にしないで」
明るく返してみる。
途端に、がくりと視界が傾いた。息が詰まる。床に膝をついていた。
でも、倒れない。
あの日病院の屋上で覚醒したときよりも、頭の中はすっきりしていた。息苦しさもすぐに薄れる。急いで立ち上がり、告げる。
「宿った……。何かができるようになった、という気がする」
「マジで……? それで、何するの」
「わからないけど、やってみる」
両手を伸ばす。その先には、不安そうな表情のケズルと、うねりながら膨らみ続けるフユルとが並んでいた。
(イメージするだけでいい)
いつかケズルが言っていたことを思い出して心に唱える。
二人の苦しみを止めたい。それも、二人がお互いを補い合えるような形で。
(それには……)
目を閉じて、イメージする。ゆっくりと息を吸って吐く。
(それには、この二人を)
前方に差し出し続けていた両手を、胸の前で合わせた。もう一回、深呼吸。
ベッドの上で何かが弾けるような音が二度、三度起こって、あとは静かになった。
恐る恐る目を開くと、そこには融合して一人の少女になったケズルとフユルがいた。
彼女は無言で身を起こし、自らの手足や髪の毛をしげしげと眺めた。
「どう? どう……?」
尋ねる自分の声が震えていた。
「……最高!」
新しく生まれ直した少女が、ベッドから飛び上がって抱きついてきた。
「私らを合わせて一人にしてくれたのね。あなたの能力は別々だったものを合わせること、だから、これからはアワスって呼ぶよ」
こうしてわたしはアワスになった。
(条件)
「死んだ人や意識のない人がみんなわたしたちみたいな存在になるとしたら、他にも『そういう人』に会うことがないのはおかしいなっていうのは、ずっと気になっていたの」
チェリー味のコーラを見つけずに駆け戻ってきた理由を尋ねられて、わたしは考えながらゆっくりと語った。
「超かわいい女の子だけが『そう』なれるっていう解釈はどう?」
新しい少女は小首をかしげて問いかける。もう苦しみからはすっかり抜け出したようだ。
でもたぶん、彼女の内側では絶え間なくフユルの増殖とケズルの増殖キャンセルが繰り返されているのだろう。二人がいつも手をつないでいた頃のように。
「海を見にいったときの犬。あれは超かわいい女の子ではないでしょう」「そっか」
「お墓を作って、お祈りしてから見たら、消えてた。フユルが『誰か一人でも心を込めて祈ればいい』って言った。つまり……」
つまり、ケズルやフユルのような状態、「夢みたいな」能力と自由を得た存在になるための条件は二つ。「死によって、心が身体から離れた者」であり、なおかつ「誰にも心から祈られ、優しく見送られることがない者」だということだ。
わたしの場合は、身体がまだかろうじて生きていた。二人との違いはその一点だけ、「夢みたいな」能力と自由までにあと一歩、王手のかかった状態だったのだ。
「つまり、わたしは、つまり、わたしも……」
二つ目のほうの条件は、満たしていたということ。それを説明するだけのはずなのに、声が詰まった。
「言わなくていいよ」
少女が手を伸ばして、頭をなでてくれる。そのままわたしの額に顔を寄せてそっと前髪の一房を唇にくわえ「まだ冷たい」と笑った。
やわらかく温かい手のひらが頭の形をなぞるように下りてきて、わたしの両頬を包む。
「アワス。ずっと一緒にいよう。二人で、ずっと何か楽しいことだけして過ごそうよ」
こちらを見つめる瞳は、ケズルとフユルどちらにも似ていた。
人格や記憶も、完全に融合してしまったんだろうか? これから時間をかけて確かめてみよう。そう考えながら、わたしは彼女を見つめ返した。
(ひとりごと)
ねえ、聞いてる? 寝ちゃったみたいね。
返してもらわなくても、本当はちょっとずつ記憶が戻ってきているのよ。合わせる能力のおかげかも。自分が意地悪な女の子だったことや、意味もなく生き物を殺してたことを、思い出せるもの。肝心なことは全然だけどね。
だからこれは、「そうじゃないかな」って考えただけなんだけど。ただの想像なんだけど。
わたしは、ケズルとフユルの、復讐相手の一人だったんじゃないの?
ケズルは「相手を削り殺さないように、力の加減が難しい」って言ってた。わたしへの復讐、加減を間違えて意識が戻らないところまで痛めつけてしまったのかな。って。
問題は、わたしもそっちに仲間入りしちゃったこと。二人と同じ、「夢みたいな」子として覚醒しようとしていた。
わたしって、生きてた頃かなり凶暴というか、危険な奴だったの? もしかして。
何かめちゃくちゃ強い能力を持ったわたしが、二人の前に現れたとしたら。復讐の復讐をしようとしたら。……新しく目を覚ます前に、なんとかしなくちゃ!
祈ってみた? 心から祈ったりはできなかったんでしょうね。生きてるときにわたしにいじめられてたなら、優しく見送るなんてできないと思う。
それで、わたしの記憶を削ることにしたわけだ。
ホテルの部屋に戻ったとき、もうフユルは消えてなくなっているって予想してた。
モールに向かうバスから見えたお葬式の家……フユルの家かどうかは確かめてないけど、弔われることとわたしたちの存在との間には何か関係があるって、あのとき確信したの。
砂浜で死んでた犬は空中に浮かんでいたけど、祈ったら消えた。あのお葬式がフユルを弔うためのものだとしたら、集まった人の誰かが、誰か一人でも、心から祈ることで、フユルも消滅するって思った。本当に心配で、急いで戻ったのよ。
でもフユルは消えてなかった。何故だと思う?
心からの祈りを捧げる。優しい気持ちで見送る……。お葬式の場で、「その逆」が行われたんじゃないかって、わたしはそう考えてる。
本当のことはわからないけどね。
ねえ、一緒にいろんな所に行こうね。
ずっと、一緒に過ごそうね。
生きてた頃の記憶はちょっとずつ戻ってきてるけど、そうじゃないフリを続けてあげる。
楽しいなあ。あなたはわたしが作ったの。かわいくて、頭が悪くて、その気になったらいつでも死ぬより苦しい目に遭わすことができる。夢みたい!
愛してるよ。でも、名前はつけてあげない。
(おわり)
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