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「Vtuber=寿司」論に覚える違和感


Vtuberが嫌いな理由

Vtuberに対する違和感を語る動画が一時期話題になりました。いささか乱暴ですが、私はこの意見は結構筋が通っているように思います。

上記動画に対する反応と思しきツイートを見つけました。東京大学で哲学を選考されている先生だそうです。

先生にとってVtuberとは

先生の言い分を要約すると、

VTuberはデジタル上の身体とリアルな人格が一体化した存在であり、単純に二次元・三次元に分けるのは表面的な見方に過ぎない。
「VTuberファンが二次元と三次元を両方求めるのは中途半端」という指摘は、「お寿司好きが刺身を単体で食べるのは中途半端」と言うのと同じくらい不合理。VTuberの実写コンテンツを楽しむことも、VTuber好きであることと矛盾せず、どちらも自然な楽しみ方の一環である。

ということらしいです。

私が感じた違和感。…寿司?

寿司の魅力と言えば、やはり“ネタとシャリが完全に一体化している”ことにあるでしょう。魚の旨みとご飯のほのかな酸味が噛み合い、切り離すことなど想定されていないからこそ、多くの人にとって自然な完成形となるのです。ですから「VTuberは、キャラクター(刺身)と配信者本人(シャリ)が合わさって、本来の魅力を発揮する」といった例えは、一見すると理にかなっているように思えます。

寿司なVtuberが居ない…

けれど、実際のVTuber界隈をのぞいてみると、寿司ほどに“二つの要素が完璧に融合している”とは言い難いのが現状です。たとえば、普段はアニメ風のキャラクターとして振る舞っているのに、動画や配信の中で現実の身体を大胆に映して視聴者を惹きつけようとする方もいます。あるいは、キャラクターとしての設定や演技がしっかりしておらず、独自の世界観を示せないまま、ただ“二次元の見た目+生身の声”で活動しているだけの方もいます。そうした姿が必ずしも悪いわけではありませんが、もし「寿司のように一体化している」と言われると、やや違和感を覚えるのも自然なことでしょう。

また、都合が悪くなると「配信者にはプライバシーがあるから踏み込まないで」と主張し、キャラクター性を引っ込めてしまうケースも散見されます。SNSでは可愛らしいビジュアルを前面に押し出しながら、いざ批判を受けると「私は現実の人間なので、過度に言及しないでほしい」という具合に立場を変える。寿司に例えるなら、ネタとシャリがかみ合わずにバラバラのまま「でもこれも寿司ですよ」と言われているようなもので、やや説得力に欠けるかもしれません。

そもそも、本物の寿司は味も食感も自然に調和しているからこそ、誰からも文句が出ない。それに比べると、VTuberは「キャラクターらしさ」と「配信者のリアルな要素」がうまくかみ合わないまま進んでいる部分が目立ちます。もちろん、そこにこそ面白さを感じるファンもいますが、同時に「どちらも中途半端なのでは?」と疑問を持つ人が出てくるのも当然でしょう。

「寿司にたとえればおいしく食べられるでしょ?」と一括りにしてしまうと、現実のVTuber活動の幅広さや曖昧さが見えなくなってしまいます。
チョコやフルーツなどシャリに合わないものを載せた“変わり種寿司”も世の中にはありますが、それを「従来の寿司と同じ完成度」とは呼びにくいのと同じです。

だからこそ”推せる”

それでも、多くの人がVTuberに注目し、時には批判し、時には熱心に“推し活”をしているのも事実です。なぜなら、この中途半端な存在こそが、ある種の「ゲテモノ的な魅力」を放っているからではないでしょうか。
見かけだけはアニメ風の愛らしさを持ちながら、中身は生身の人間臭さが垣間見える。そのアンバランスさが際立っているからこそ、生理的に嫌悪感を抱く人もいれば、逆にそのギャップに引き込まれて強く推したくなる人もいるのです。

批判する人は決して浅くない

VTuberは本来の寿司のように“二つの要素が完璧に溶け合った”存在ではないからこそ、逆に目を引く“ゲテモノ”的な側面をもっている。そしてその“中途半端な合わさり方”が、批判や嫌悪の対象である一方、熱心に推したくなる魅力でもある。肯定派も否定派も、同じ“グロテスクな融合”を見ているからこそ、そこに強い感情を抱くのだと思います。
洗練された完全形ではないからこそ、VTuberは人々の関心を集め続けている――これが、昨今のVTuber批判を考えるうえで、一つの大きなポイントではないでしょうか。

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