嗚呼、この時のために私は
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これ程良い時間は無い。
フツフツと水気を含んだ白米の炊けていく音。
排気口からゆらりと昇る誘惑の蒸気。そして、それを吸い込む度に感じる、お腹を空かせる香り……。嗚呼、もう我慢できない。
私は、キッチンカウンターの中段に鎮座している炊飯器の前で正座をしながらその時を待つ。
私を照らすのは大きな掃き出し窓から差し込む強い日差し。
聴こえるのは近くの森で囀る小鳥の朝礼。
でも、そんな事はどうだっていい。
今私が求めているのは、この目の前にある美味しそうなご飯なのだから……。そうして待つこと10分。
サウナから駆け出して来た青年が、「もう無理!」と叫ぶような、炊き上がりを報せるピーッピーッという電子音が鳴り響き、その瞬間、私の中で何かが弾けたような気がした。
それはまるで天啓のように頭に舞い降りて来て、身体中を駆け巡った。
「来た……ッ」
痺れる足を叩きながら立ち上がると、蓋に手を掛けて勢いよく開け放つ。すると、そこには先ほどよりも更に強く香ばしい湯気が立ち上り、艶やかな輝きを放つ一粒々の宝石のような白米の姿があった。
思わずごくり、と喉が鳴る。
しかし、ここで焦ってはいけない。
しゃもじを手に取り、軽く解すと、再び蓋を閉じる。ここから更に30分蒸らさなくてはならないのだ。
私は逸る気持ちを抑えつつ、スマホでタイマーをセットしてそっと立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
外は晴天だ。今日も良い一日になりそうだなぁと思いながら、爽やかな朝の陽射しと共に視界に飛び込んでくる、一面に広がる緑の絨毯を見渡した。
ここは都内に程近い場所なのだが、緑が多く、春は花が咲き乱れ、夏には青々と茂る木々の葉の間から木漏れ日が落ちてくる。秋になると紅葉に染まり、冬になればその葉が全て落ちてしまう。
今は丁度春の季節なので、チューリップやポピーなど、色とりどりの花々が歩道沿いに植えられていて、時折散歩をする人やジョギングする人が通っていく。
都会の中にこんなにも自然が残っているなんて驚きだが、実はアパートの近くに大きな公園がある為、意外と緑には困らない。それに、少し歩けばスーパーもあるし、生活するには申し分ない環境であると言えるだろう。
そして何よりこのアパートの良いところと言えば、大通りから一本奥に入った坂道の頂点に位置している事だろうか。その為か、騒音もなくとても静かだし、人通りも少なく治安が良い。
何にせよ、こうして見渡す限りの緑に囲まれると心が落ち着くものだ。
そんな事を考えていると、白米の蒸らし時間が終わったようで、スマホのアラームが鳴いた。
待ちに待った瞬間が来た!
私はしゃもじを構え、お茶碗にゆっくりと丁寧に掬って乗せていく。
ふっくらとした白米がキラキラ輝いているように見えるのは気のせいではないはずだ。
それでは早速……。
「いただきます……」
まずは何も付けずに食べようと思う。
一口目を食べる時はいつもドキドキしてしまうのだが、今日のは一段とその緊張感が強いように感じた。
箸で摘み上げてみると、その重さを感じる。
口に運ぶ前からわかる。これは絶対美味しい。間違い無い。
私は意を決してパクッと一口食べた。
「さいっこう……」
噛む度に甘さが広がっていく。噛めば噛むほど味が出る。日本人に生まれて良かったと思うのはこの瞬間くらいだろう。
そうしてあっという間に完食してしまった。
お腹いっぱいになったはずなのにまだ足りないと感じている自分がいる事に驚く。もっと食べたい。おかわりしたい。でも流石に二杯目は腹八分目を越えてしまう。
私は苦渋の決断の末、しゃもじでひと掬いした白米を最後に、名残惜しく思いながらも口の中に放り込んだ。