頑張るだけが挑戦ではない
挑戦
何かに挑戦する。とてもすごいことだと思う。
子どもの頃は常に挑戦だった。挑戦というとかっこいいが、実際には必死という言葉の方が合っているのかもしれない。能力以上のことばかり。みんなすごい。能力が低い自分は苦しかった。
身長も低く、頭もよくない。運動は出来なくはないが、所詮そこそこ。引っ込み思案で友達とも上手く関われない。何事も上手くいかない。だからこそ、能力が低い自分は人よりも努力をして挑戦をしないといけない。そう思い込んでいた。
そんな中心機一転しようと高校で新しく入った将棋部。学生生活で初めて生きがいを見いだし、とにかく努力した。文字通り、四六時中将棋のことだけを考え続けた。
せめて将棋だけは結果を残したい。大会ではベスト8くらいは常に勝ち上がれるようにはなった。最高で地域3位。すごいねと言われるが、3年間すべてを費やした結果にしては正直納得いくものではなかった。自己評価は「ダメ」
なんとか教員に就職。そこでも挑戦の日々は続いた。
大学出たばかりの何も知らない自分が、いきなり35人の小学生の担任である。昨日までぐーたらしていた自分が急に「先生」と呼ばれる。子どもからはまだ実習等で慣れがあったが、保護者からも「先生」と呼ばれる。
学習はもちろんだが、子どもの安全を毎日6時間以上も確保しなければいけないことが本当に難しかった。けんか、いじめ、不登校、アレルギー。リアルに危険になることばかり。
当然授業、学級経営、部活もある。挑戦する日々。何もしないことでよくなることはほぼない。毎日、成長しなければという思い。
だからこそ教育書やビジネス書を読みあさった。職場の先輩だけでなく、教育サークルや教育イベントにも積極的に足を運んだ。能力が低い自分は人よりも努力をして挑戦をしなければいけない。社会人なってもその思いは変わらなかった。というより、より強くなった。
一応10年ほどたち、なんとかそれなりに仕事というものが分かってきて、ようやくそれなりにできるようにはなってきた。挑戦し続けてよかった。そう思えるまでにはなれた。
だけど、それは実は本当の意味での挑戦ではないと思うようになった。
挑戦とは「困難なことに挑むこと」
努力しなきゃと自然と思うからこそ、努力することは本当に困難なことなのだろうか。
むしろ自分に欠けている部分ではなく、すでにもっている自分の良さを認め、ありのままで振る舞う方が自分は困難であるのではないか。
ずっと空気を読んできた。その場にふさわしいと思われるような行動をするように心掛けてきた。自分の意見や自分らしさなど、ダメな自分は出してはいけないと思っていた。
しかし結果、どうだろう。成長した今、幸せに生活しているだろうか。胸を張ってYESとは言えない。ずっと苦しいまま。だったら、今度は角度の違う挑戦をしてもいいじゃないか。
ネガティブな自分にとっては、立場や役割に合った振る舞いよりも、自分らしく振る舞うことが挑戦になる。だから自分らしい行動で、自分の素をどんどん出していくことにした。はじめはすごくドキドキ。こんな自分を出してもいいのだろうか。引かれないだろうか。
そして挑戦をしてから1か月ほど経つ。びくびくしながらではあったが、結論それほど変わらず素の自分でもみんな受け入れてくれている。目に見える結果は正直わからないが、自分の満足感と充実感がまるで違う。
年齢を重ねると思考がどんどん偏っていくと思う。自分の自然な思考の範囲外はなかなか取り組むことが出来なくなっていくと思う。
実直にがんばることだけが挑戦ではない。時にはがんばるでのはなく自然体でいることも挑戦である。自分の自然の思考の範囲外に挑戦することが人として大きくなる一番の方法であろう。