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そこに遊び心はあるのか?

先日、中村さんと為末大さん著『熟達論』について話した。

人はどうやって熟達するのか?を自身だけでなく、一流の選手にインタビューをしていき考察した一冊。

具体的なエピソードが面白く、なんというか刺激的だった。

本書では、「熟達」というテーマについて考え、掘り下げていく。熟達と聞いて抱くイメージはなんだろうか。その道数十年の寿司職人が最高の加減で寿司を握る。ベテラン政治家が巧みな話術で人を引き込む。一流の野球選手が、考えられないようなプレイを見せる。小児科医が、子供の細かなしぐさから症状を推測する。熟達とはこのように特定の領域において技能が極まった状態を指す。

熟達論

遊から始まる

熟達論では、5つのプロセスを経て、人は熟達をしていくと紹介されていた。

熟達を探求していくプロセスは一本道ではなく、段階に分かれていると考えている。  私はずっと、矛盾する教えが両立することを疑問に思ってきた。例えば「まず言われたことを言われたようにやり、基本を覚えることが大事である」という人もいれば「自分で考え自分に合ったものを選ぶことが大事である」という人もいる。また「量が大事だ」「質が大事だ」や、「考えろ」「考えるな、感じろ」というのもある。今ならばわかるが、これらは段階が違うだけなのだ。

本書では熟達の探求プロセスを五段階に分けている。「遊」「型」「観」「心」「空」だ。「遊」から始まり、「空」に至るまで段階を踏んでいく。

熟達論

特に印象的なのは、遊から始まること。

遊びは、覚えるものではなく、ついついしてしまうもの。

おもしろくて、不規則性のあるものだ。

仕事にしても、スポーツにしても、好きでたまらない人には敵わないことの方が多い。

一般的には、努力と言われそうなものも、本人のなかでは面白くて努力とすら感じていないからだ。

ぼくの場合は、トレイルランはかなり近い感覚がある。

レースは楽しいのは、もちろんのこと、知っていったり走るたびに発見のあるものだから、飽きない。

誰かから強いられることなく、自らやってしまいたくなる気持ちがあるものを選んだり、工夫をすること。

そこからスタートしていくと、物事が例え、うまくいかないことがあっても楽しめるようになり、長期的に観ると遠いところまで行ける気がする。

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