チラシの裏で作ったチラシ寿司
以下の文章はチラシの裏であり単なる思考ログです。
アートと呼ばれる対象、そして、そこに向けられたアートという言葉に僕は抵抗を感じる。
それは製作者の意図が読み切れない、だとか、作品の価値が分からない、だとか
そういう分かりやすい理由によるものではない。
アートと呼ばれる存在について、僕はそれをアートであると思えるのか、その自信がない。
作品について面白い、とか、綺麗だ、とか
そういう感想はいくらでも出る。
だが、アートと呼ばれると「アートって何?」となる。
これはまずアートというものを定義しなければ始まらない。
アート(英語:Art)とは、芸術・美術など間接的に社会に影響を与え得るものである。
偉大なるwikipedia様はこう仰られている。
なるほど、左様でございますか。
僕は思考する。
じゃぁ社会に影響を与えないならアートではないんですか。
そんな訳ないだろ。
アートというのは、僕にとってもっと自由で無秩序で
それこそ製作者が「これはアートだ!」と言ったらアートであると認めてあげたいぐらいだ。
だが、現実にはそうはいかないのも分かる。
その作品が何の価値もないガラクタどころか、製作者が羊の皮を被せた核ミサイルをアートといっても、それはまぁ、アート以前に核ミサイルだろう。
つまり、製作者の、あるいは環境による作品がアートであるという主張を僕は認めてやりたいのだが、僕が培ってきた倫理観や人生観といったものが、それを否定している。
問題はそこだ。
これは終始、僕自身に去来するもので誰かに共感してもらったり分かち合える価値のあるものではなく、つまり僕がアートと呼ばれるものに対して抵抗を感じるのは、僕自身のジレンマによる。
僕の純粋な部分はアートと呼ばれるもの全てをアートと認めているが、理性の部分ではアートとそうでないものが存在すると言っている。
だから、アートと呼ばれるものに対して立ち止まってしまう。
僕が製作者ならば誰が何と言おうと「これはアート!」と言って内心の決着を付けられるのだが、人の作ったものとなると、それがアートであることを自分が許せるのかとなる。
人間の価値観は孤独で、僕はそれを尊重したいのだが、僕の尊重が誰かを傷つけるなら引っ込めたいという気持ちもあり、まったく身動きが取れない状態である。
どうしたらいいのかと考えると、やはり強く殴っても許されるライセンスを取得するしかねーな、みたいな思考が浮かぶが、そのライセンスを持っている頃には強く殴ることなどないのだろうな……という予感がある。
こういう時に神様が出てきて全て解決してくれると楽だな、と小学生並みの妄想をするが、やはり母親や教師のように僕より巨大な存在に「勉強しろ」と言われ、まったくその通りだなと頷くしかない。
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