トンボ
左手に座る女性が、頭のあたりを庇うような姿勢をとった。きゃあきゃあと笑いながら声をあげる。なにごとだろうと思って見ると、トンボである。乗客と一緒に電車内に入り込んでしまったらしい。
女性がやみくもに手を振ると、今度は私の座るボックス席付近を飛んでくる。もちろん私も、リュックサックをつかい自分の身を庇う。向かいに座るおじさんは、手に持った文庫本でトンボを追いやろうとする。
トンボは、缶チューハイの近くをうろうろする。おじさんは「これがいけないんだね、これだね」と半分は笑いながら、半分はおそるおそる缶チューハイを手に取り、足元に置いた。
私の右手のおばさんが、腰を浮かせ、電車の窓を下げる。途端、トンボは車内の奥へと飛び去ってしまう。
「せっかく逃がしてあげようと思ったのにねえ」
顔を見合わせて笑い、またそれぞれの手元へと視線を戻していった。
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