近くの海、遠くの海
私の故郷は海の見える町だ。
なんなら橋も島も湾の向こうの紀伊半島も見える。斜面に沿うように立ち並ぶ家々は個人的に尾道にも引けを取らない景観だと思っている。
今暮らしている町は山に囲まれた平野で、川はあれども海は見えない。そう、海が見えないのだ。
引っ越して来てから気付いたのだが、二十数年毎日海を見て育って来た人間から急に海を奪うと、かなり大きい喪失感がある。
もちろん車を走らせれば海に行くことはできる。電車社会で育った私は免許なんて持っていないので、友達を誘っては何度も海までドライブしていた。多分そろそろ嫌がられていたと思う。
しかしそう言うなら例えば島育ちの人なんてもっと身近に海があったわけで、そういった人たちの方がもっと海を恋しく思ってるんじゃないかという話になる。でも私がここまで海に何か思いを抱いているのは海との距離感にあると思う。
あくまで憶測だが、島育ちの人にとって海とは道としての意味合いが強いと思っている。毎日船に乗って本土に通学、通勤する人にとって海を渡るということは、あくまでも道を渡ることと変わらないのではないか。ずっと島内で暮らして来た人もいずれは島を出ることが多いわけで、やはり目の前に広がる海はいずれ渡るものになる。
逆に私にとって海は渡るものではなく、遠目から眺めるものであり、ただそこにあるだけで良いものだった。確かに海風が吹けば潮の匂いがするし、夜中には船の汽笛やエンジン音が町中に響き渡っていて、物理的にはとても近いものだ。
でも心理的にはもう少し距離があるというか、眺めて、向こうの島々に想いを馳せて、それで終わり。たまに旅行に行ったりもするが、大袈裟に言えばハワイにバカンスに行くようなもので、向こう岸に待っているのは解放感や癒しなのだ。
まとめると、海を通して都市から島を見るのと、島から都市を見るのでは、海に対する感じ方が違うのではないかということだ。
例えば徹夜で課題を片付けて、心がささくれ立ったまま駅までの道を歩いていても、眼下に広がる海を見ると、橋を渡れば今すぐにでもこの忙しない状況から逃げられるという一種の安心感があったのだ。もちろん実際はそんなわけないのだが。
とにかく私は海を見て、その向こうに老後に田舎暮らしをするだとか、そういった類の自由の幻想を見ていたのだと思う。そしてそれは心の支えになってくれることもある。
今、海が見えない生活を送っていることで、その心の支えの一部が無くなっているんじゃないかと思う。山に囲まれていると、やはり無意識のうちに閉塞感を感じているんじゃないのか。
私が夜な夜な土手に出向いては川と橋を眺めているのも、海を失った喪失感を補うために思えてくる。
故郷を離れるにあたって、故郷に思い入れが強い場合は、新しく住む町の景色だったりも大事になるようだ。心身の健康を守るためにも、次に引っ越す時は気を付けねばならない。
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