【小説】きみは主人公
きみは主人公
百目鬼キリは、やたらとゴテゴテといかつい名前以外は、きわめて普通の同級生だった。しいて言うなら、成績も運動神経も交友関係も、すべてが普通過ぎるところがむしろ変かもしれない。けれどそれは別に、百目鬼本人が意識して『普通』をやろうとしている、というのではない。百目鬼はあくまで自然に、そうあることが当たり前であるように『普通』でいた。まるで、神様がそう作ったみたいに。
だとすれば、神様というのはずいぶん器用でキャラクター設定がうまいものらしい。なにせ俺は、今日に至るまでまったく、一ミリも、百目鬼キリという人間に違和感を覚えなかったのだから。
「永井?」
唐突にそう呼ばれて、慌てて意識を現実に戻す。見れば、百目鬼が不思議そうな顔で俺の方を見ていた。百目鬼が小さな声で言う。そろそろ、本文読まされるけど。確かに、俺の三つ前の田中が教科書の音読をさせられているところだった。田中、手塚、百目鬼、永井、の順なので、未だにページを開いていない俺に百目鬼が気を遣って声をかけてくれたってところだろう。百目鬼のそういう気の利かせ方に、俺は今までも何度か助けられている。
「七十八ページの六行目あたりだと思う、永井が読むの」
「ん、サンキュ」
意識飛びすぎだろ、と百目鬼が小さく笑う。細くなった目の下には、白いガーゼが貼られていた。ここら辺、と教科書を示す指から手にかけては、包帯が巻かれている。
百目鬼がガーゼと包帯まみれの痛々しい姿で登校してきたとき、教室はちょっとした騒ぎになった。百目鬼曰く、マンションの階段から落ちたらしいその怪我に、おいおい、とクラスメイトと先生が苦笑いをして、それで話は終わった。不自然なくらいあっさりと、百目鬼の怪我は当たり前の出来事として処理され、教室は日常に回帰した。
あの空間で、俺だけが笑えなかった。クラスでひとり、俺だけが、百目鬼の嘘を知っている。
「なあ」
百目鬼、と声が喉まで出かかって、だけどなにかが詰まっているみたいにそこで止まる。言葉が出ない。言葉を出すな、と言われているような気がした。なにか大きな、運命みたいなものに。
「ん?」
百目鬼が不思議そうな顔をする。どこにでもいる、普通の男子高校生の顔だった。少なくとも、昨日なんか変な化け物と対峙して、剣を握って戦っていたとは到底思えない。
なんでもない、と呟いて、教科書に目を落とす。よそ見すんなー、と先生が俺たちの方を睨んだ。
家に帰ると、弟がリビングで漫画雑誌をめくっていた。ちょっとそれ貸してくんね、と言うと、怪訝そうな顔をされる。
「普段読んでないじゃん」
「いや、ちょっと気になることあって」
「まあいいけど。でも今週どれもあんま面白くないよ。後ろの方とかそろそろ切られるんじゃないかな」
なぜか妙に通ぶった口調でどの作品が面白いだの、あの作品はこれの影響を受けすぎていてだのと話す弟を無視して、ぱらぱらとページをめくる。だいたいどの漫画も主人公が敵と戦ったり、怪我をしたり、友情努力勝利をやったりしている。そして揃いも揃って、いかつい名前。
「っていうか三丁目の公園、使用禁止なの知ってる?」
「三丁目の公園……ああ」
「昨日車が突っ込んだらしくてさぁ、ヤバいよな」
車が突っ込んだ。昨日百目鬼が謎の戦いを繰り広げていた公園の惨状は、どうやらそういうふうになったらしい。車なんてほとんど通らないような通りにある公園なのに、誰もその件を疑問に思わないのは、やっぱりそういうことなんだろう。そういうこと、とはつまるところ、この世界が少年漫画の世界だということである。
クラス名簿のことを思う。田中、手塚、百目鬼、永井。平々凡々な名前の中に一つだけ、明かに浮世離れした名前があるにもかかわらず、思えば誰もその話をしたことがない。朝の教室のことを思う。不自然なほどにあっさりと笑い飛ばされた百目鬼の怪我。公園のことを思う。どう考えても車が突っ込んだようには見えないのに、疑問を持たない人たち。
昨日の放課後のことを思う。剣を握ってよくわからない生き物と戦う、百目鬼のこと。まるで、漫画の主人公のような。
現実味のない話だけれど、妙に納得のいく仮説でもあった。とはいえ、だからといってなにかができるわけでもない。もしこの世界が、百目鬼が主人公の少年漫画なのだとしたら、俺はおそらくは同級生A、いわゆるモブ、主人公が守る世界で普通に暮らしているだけの人だろう。ほとんど背景のようなものだ。今までも、これからも。そして別にそれは、悪いことでもなんでもない。主人公願望なんてものはない。あるいは、神様がそういうふうに俺を作ったのかもしれない。原稿用紙に筆を走らせる、俺たちの神様。
「あ、その漫画今週はけっこう良かったんだよな」
たまたま手を止めたページに、弟がそう言う。見開きで、腹を深く刺された主人公が、口から血を流しながら敵に啖呵を切っているシーンだった。台詞の内容なんかよりも、腹の傷の方が気になる。百目鬼の、やけに白く見えた包帯のことを思い出す。
「めっちゃ痛そうだな、これ」
「えー、あ、腹? そうかもね、確かに。あんま気にしたことなかったわ」
「もうちょっと気にしろよ」
「いやー、だって主人公の怪我なんか気にしてたら話進まないって。どうせ無事だし」
苦境がないと盛り上がらないって、と弟が肩をすくめる。弟の言うことは確かに正しい。苦境も傷も、少年漫画には欠かせない。昨日までの俺ならなんの疑問もなく頷けたその言葉に、けれど今日の俺は、うまく返事ができなかった。
世界はなにも変わらない。なにも変わらないように百目鬼が頑張っている、のかもしれない。俺はあの放課後以来、百目鬼が何かと戦っているところは見ていない。けれど街に特に大きな変化もなく、平穏に俺たちが日常生活を送れていて、そして百目鬼の痛々しい包帯が増え続けているということは、つまりはそういうことだ。
百目鬼が学校を休むことも増えた。今までに比べればずいぶんと多い欠席は、それでも平然と流されている。風邪や家庭の事情というのが嘘なのか本当なのか、百目鬼がなにと戦っているのか、実際のところ世界が脅威に晒されているのかいないのか、そういうことを、俺は何ひとつとして知らない。どうやらそれは、ただ主人公がクラスにいるだけのモブには不必要な情報らしい。
それはある意味、当然の摂理かもしれない。知ったところで、なにかができる能力が俺に与えられているわけでもない。そういうことを俺が知ったところで、物語のノイズにしかならないとすら言える。俺に与えられた能力といえばせいぜい、校庭のライン引きが人よりうまいってことくらいである。今みたいな体育の時間にしか役に立たない能力ではあるが、それくらいがちょうどいいとすら思う。
「あ、永井」
ラインカーを戻そうと体育倉庫の扉を開けると、暗闇からいきなり百目鬼の声がした。どうやら奥の棚の前にいるらしい。
「うわ、なにしてんの」
「いや、バトン探そうかなって思って」
少し張り上げた百目鬼の声が、体育倉庫の中で反響している。バトンとはおそらくリレーのバトンのことだ。リレーのバトンなら、ラインカーを持っていくときについでに教師に渡した。そのことを伝えると、百目鬼はなんだ、と肩をすくめて笑った。
「ぜんぜん見つかんねぇから焦ったわ」
「そりゃもう持っていった後だからな、っていうか、見学なんだから大人しくしてろよ」
あはは、と笑いながら、奥から制服姿の百目鬼が軽く手を振る。髪の毛に少し埃がついていた。
「別に怪我とか風邪じゃないんだよね」
体操服忘れてさ、と百目鬼は苦笑いをしながら言った。うそつけ怪我人、と思う。昨日も街のはずれで交通事故とやらがあったらしい。歩くときに少し引きずる右足を見るに、どうせ百目鬼が関係しているんだろう。
百目鬼が体操服を着ているところを、そういえばずいぶんと見ていない気がする。着替えを見られたくないのかもしれない。きっと、制服の下は痛々しい傷だらけだろうから。その傷は、あるいは勲章と呼ばれるものなのかもしれないけれど。
「百目鬼」
なにか言おうと思ったことがあるわけでもなかった。ただ、なぜか口が動いた。
「ん?」
百目鬼が首を傾げる。薄暗い体育倉庫の奥で、ひとりで立っている百目鬼を見ていると、なぜか妙に心がざわついた。だけど、声は出ない。弟が言っていたことをふと思い出す。主人公の怪我なんか気にしてたら話進まないって。それは物語としては圧倒的に正しい。だから声が出ないのかもしれない。神様が俺に与えた役割は、主人公の邪魔をしないことなのかもしれない。
「なんかあった?」
百目鬼がハードルやらなんやらを避けながら、器用に近づいてくる。鉄の匂いがした。
なんもねえよ、と呟きながら、ライナーを定位置に戻して外に出る。ちょっと腹が立つくらいに、空が青い。
「お、打ち切りだ」
打ち切り、という単語に思わず振り返る。最近はやたらとそういう単語に敏感になってきた。話をしていたのは知らない男子高校生たちだった。一応雑誌コーナーには立ち読み禁止の札が下がっているけれど、彼らがそれを守る気配はない。
「マジ? まあ面白くなかったもんな」
「それ。どっかで見た感じだったし」
いつもの炭酸飲料を買いに来ただけだったはずなのに、ペットボトルの棚の前で足が止まったまま動かなかった。目が滑る。男子高校生は、特にそれ以上その漫画の話題は出さずに別の話を始めた。俺ばかりが、妙に緊張した気持ちでいる。
彼らが話していた、打ち切りになったとかいう漫画について、俺は詳しいことを知らない。結局あれ以降、弟の読む漫画雑誌も借りていない。もしかすると、弟がそろそろ切られると言っていた後ろの方の漫画なのかもしれない。どっかで見た感じ。弟も同じようなことを言っていた気がする。
ペットボトルの陳列棚に触れると、その冷たさで少しだけ気持ちが落ち着いてきた。落ち着くと、今度はゆるやかに怒りが湧いてくる。なにに対する怒りなんだろう、これは。自分でもよくわからない。
今日も百目鬼は包帯を巻いていて、クラスメイトも先生も誰もなにも言わないで、昼休み明けには百目鬼は教室からいなくなっていた。先生曰く風邪で早退したらしいが、おそらくは嘘だ。百目鬼と、五限の調理実習が楽しみだとか、そういうくだらない話をしたのは今日の朝のことだ。五限の調理実習を楽しみにしていたやつが、風邪で昼休み前に早退するはずがない。俺や手塚が調理実習でまずいカルボナーラを作っている間に、百目鬼は、どこかで主人公らしく友情努力勝利に勤しんでいたのだろう。傷だらけになりながら。
炭酸を持ってレジに並ぶ。俺がこうして普通に買い物ができるのも、男子高校生が立ち読みコーナーで雑誌を読めるのも、きっと百目鬼のおかげで、それは打ち切られた漫画だって変わらない。人が生活していて、それを守るために戦っている誰かがいて、それはときどき、理不尽に唐突な終わりを告げられたりする。その『誰か』のことを、みんな知らないままで。その『誰か』と、その物語は、面白くないかもしれない。どこかで見たことがあるのかもしれない。それでも、戦っている。神様に主人公として作られてしまった彼らは、まずいカルボナーラよりも世界の平和を選ばなくてはいけない。ここはどうやら、そういう世界らしい。
どうか。ペットボトルを握る手に力を込めて、願う。どうか、この世界が理不尽に断ち切られませんように。百目鬼が報われますように。そういうことを心の内でいくつか願ってみるけれど、どれもなんとなく違う気がした。
薄暗いやるせなさが、じっとりと体に付き纏っている。まっすぐに前を向いていることをなにかに咎められているような気がして、視線を少し逸らす。ふと、棚に並べられた小さな箱が目に入った。
例の放課後以降は毎日作り物みたいに青かった空が、今日はこれまた作り物みたいな土砂降りの雨だった。朝起きて空を見たときからずっと、嫌な予感が続いている。この世界が最終回を迎えるような、そんな予感。あの日から今日までって、週刊誌のカウントで言うと何話分になるんだろうか。
学校へ向かう道は、不気味なくらい暗かった。不穏な世界の演出としてはこの上なく適切だ。このあとの展開は、なんとなく想像がつく。きっとこれから今までで一番強くて邪悪な敵が現れて、それを百目鬼が迎え撃つ。百目鬼はあちこち怪我をして、苦境という苦境に立たされて、だけどなんかいい感じに盛り上がって、敵を倒して世界の平和を守るのだろう。王道の少年漫画の、王道の最終回。主人公の痛みや苦しみや日常の欠損なんかを都合よく無視した、大団円のハッピーエンド。
「なにぼーっとしてんの」
「うわっ」
いつの間にか、水色の傘をさした百目鬼が横を歩いていた。今日はいつもよりも怪我が少ない気がした。まあ、おそらくはこれから傷まみれになるのだろうけれど。
「良い色の傘じゃん、それ」
「お、ありがと。気に入ってんだよねこれ」
百目鬼が無邪気に笑う。別に深い意味があって言ったわけじゃない。ただ、話題をなるべく日常会話へと持っていきたかった。傘の色は本当に良いと思ったけれど。さわやかな水色が、百目鬼っぽくて似合っている。一般的に主人公の色と言えば赤色らしいが、百目鬼は水色の方が似合う気がする。
「天気悪いよなー、今日」
嫌な予感する、と百目鬼が呟く。いかにもな台詞だ。
並んで歩きながら、俺と百目鬼はどうでもいい話ばかりをした。田中がフラれた話とか、数学の小テストの話とか。そういう、世界の命運なんかとはなにも関係がないような、浅瀬を泳ぐような話を。逃げるように。
「っていうかさ」
百目鬼がそう切り出すのとほとんど同時に、地面が割れるような音と、悲鳴が聞こえた。三丁目の公園の方からだった。百目鬼の顔が急に険しくなる。鋭い目つきとか、固く握られた拳とか、百目鬼のなにもかもが主人公のそれで、それが悲しかった。
ごめん、先生に今日休むって言っといて、と百目鬼が小さく呟いて、俺に背を向けて走り出した。きっと百目鬼は今から走って公園の方に向かって、そこで最後の戦いに挑むんだろう。そして俺は、そんな百目鬼の背中を困惑しながら見つめて、それから変な奴、とか言って学校に向かう、そういう役割が求められているのだろう。実際、そうしない理由もない。俺が言ったところでなにもできないし、なにか気の利いたことが言えることわけでもない。
俺はたぶん、そういうふうに作られているのだ。なんなら、キャラクターとして作られてすらいないのかもしれない。円滑に物語を進めるための舞台装置。それが俺や、手塚や、田中や、担任や、あの立ち読みの男子高校生で、俺たちに求められているのは主人公の活躍の邪魔をしないこと、主人公が主人公であることに疑問を抱かないことだけなのだ。だから俺は百目鬼になにも言えない。なにかを言おうとするたびに、言葉が出なくなる。俺にそれは求められていないから。
遠ざかっていく百目鬼の背中に一瞥をくれて、それから学校へ向かおうとポケットに手を突っ込んで歩き出そうとする。ふと、指先になにかがかすめた。なんだっけこれ、とそれを取り出す。
「……あー」
思わず口から声が漏れた。そういえば買ったな、こんなの。この前、コンビニに行ったときに。こんなもの意味ないってわかっているけど、それでも居ても立っても居られなくて、いつの間にか手にしていた。しばらくポケットに入れていたせいで、少し箱が凹んでいる。
なにも言えないのは、そういうふうに作られていないからだと思っていた。この世界の主人公は百目鬼で、俺は舞台装置で、だから俺は百目鬼になにも言えないのだと思っていた。けれどそれは、本当にそうか?
もしかしたら、本当はぜんぜんそんなことはないのかもしれない。なんならこの世界が少年漫画の世界だなんていうのも、俺の勝手な思い込みなのかもしれない。俺の声が詰まったのは、本当は単に、俺が臆病だけで。百目鬼のやわらかな部分に触れる勇気がなくて、だからいろいろ御託を並べて、自分に都合のいいように思いこんでいた。そんなことをふと思って、気づけば駆け出していた。たぶん、きっと、いや、絶対そうだ。だって、今は。
「百目鬼!」
ほら、声が出る。
走るのをやめて俺の方を振り返った百目鬼は、少し驚いた顔をしていた。なんか子供みたいだな、と思う。みたい、というのも変な話だ。俺たちはまだ高校生で、不本意だけど子供だ。教室で音読をして、体育でリレーをやって、調理実習でまずいカルボナーラを作って、そういう、子供であるべきなのだ。
だけど百目鬼は、そういうふうにはいられない。なんの因果か変な化け物と戦って世界を守らなければいけなくなってしまった百目鬼は、きっともう普通の子供には戻れない。そして、俺はそんな百目鬼を止められない。百目鬼が戦わなければきっと、世界は散々なことになるから。なら、俺にできることは。
ポケットの中に入っていたものを、勢いよく百目鬼に投げつける。百目鬼は両手でそれをキャッチすると、困惑した顔を浮かべた。なにこれ、絆創膏? 百目鬼がそう呟く。
祈りたいことは、本当は、報われてほしいとかそういう大仰なことじゃない。ただ、百目鬼がなるべく怪我をしないこと。百目鬼の、主人公じゃない、ただのクラスメイトの百目鬼キリの、平凡で穏やかな高校生活が、少しでもそこなわれないこと。本当に祈りたいのは、たぶんそういうことだった。傷つかないでほしい。絆創膏じゃ小さいかもしれないけれど、俺にできることはそのくらいの小さな祈りだけだった。
百目鬼キリ。音読の場所を教えてくれるような、見学のくせにバトンの所在を気にするような、調理実習を楽しみにしているような。そんな、俺のクラスメイト。
「あんま怪我すんなよ」
そう言って、百目鬼の心臓を軽く拳で叩く。百目鬼はちょっとびっくりした顔をして、それから、善処しまーす、と小さく笑った。