人生を彩る「音」の話 その2
こんにちは、ひづきと申します。
今回はこちらで投稿した私と「音楽」の話の続きになります。
大好きだった音楽「吹奏楽」を離れてから、今の自分の音楽観に至るまでをつづりたいと思います。
前回が、人生の前半 子供・学生編でしたので、こちらは社会人編となります。
また長くなりそうですが、お時間とお心に余裕がある方、よろしければお付き合いください。
多彩な音楽があふれるインターネット
前回で書き忘れたのですが、中学高校の時に、吹奏楽以外にも聴いていた好きな音楽があります。
アニメソングやゲーム音楽、そして今ではサブカルチャーの代名詞ともいえようボーカロイド曲です。
いわゆるボカロPが熱狂的な支持を集め、ニコニコ動画で新曲を発表すれば大流行する時代でした。
私もその流行の波にわずかですが乗っており、有名どころは幅広く、好きなPの曲は繰り返し何度も聞いて、友達とカラオケで歌ったりして楽しんでいました。
今やドラマの主題歌に引っ張りだこのあの人や、自分の声やボーカリストさんの声でメジャービューしたあの人の、もっと個性がとがっていたあの頃を知っていると思うと、鼻がひょこっと少し高くなる感覚。
大した自慢にならないので自己満足です。
彼らの作品は今でも聞き続けています。
今でも色褪せないメロディラインと、突き抜けた歌詞。
私の青春を鮮やかに彩っています。
K-POPとの出会い
吹奏楽を辞めてから、音楽を聴く機会は逆に増えていきました。
先述のボカロサウンドやゲーム音楽などに逃避していったのです。
逆に吹奏楽を思い出すようなブラスバンドやクラシック音楽を聴くと、後ろめたさを感じるようになりました。
そうした音楽に触れることがあるテレビからは離れ、自分の好きな音楽だけを聴けるインターネット中心の生活がほとんどになっていきます。
そのころのインターネットといえば、まだ少しアングラだったりオタクが集まっているイメージが多く、特に「嫌韓」と呼ばれる文化が残っている時代でした。
その影響で、私も韓国に対してあまりいいイメージは持っていませんでした。
生まれ育った大阪には韓国から移り住んだ人も多く、かつてのクラスメイトにも韓国の血を引く友達がいて仲よくしていたのにも関わらず。
触れる情報の偏り、それに気が付かないことはとても怖いことです。
そういう視点がフラットになり、今では「推し活」のために韓国語を勉強するに至ったのには、親友の存在がありました。
彼女とは小学校5年生から友達で、同じ中学に上がり、高校は離れましたが連絡を定期的にとってたびたび一緒に遊ぶ仲でした。
引っ込み思案で私よりもおとなしい彼女が初めて勧めてきてくれたのがK-POPでした。
彼女の母親が第一次韓流ブームで韓国ドラマにハマり、一緒に韓国旅行や向こうの音楽番組を観覧するうちに韓国アイドルを好きになったそうです。
当時デビュー数年目の2グループのCDを貸してもらって聴いてみました。
ロック調のJ-POPにはないメロディはとても新鮮でした。
また、本場のアメリカや黒人文化に近い、日本語とは違う発音のラップにも驚きました。
日本語のラップは少し苦手だったのですが、K-POPのラップは耳なじみがよかったです。
母音が必要で抑揚の少ない日本語と、子音のみの発音があり抑揚が強い英語・韓国語などの違いだと思います。
(それぞれ違いがありますが、優劣はありません。)
2グループのうち片方のグループの曲が気に入り、ほかのCDを借りたり譲ってもらい、Walkmanに入れて聴くようになりました。
このグループが、のちに私を救ってくれたグループ「B.A.P」です。
音楽が聴けなくなった
可もなく不可もない成績で高校を卒業し、創業100年を超える老舗の運輸会社の事務職に就職しました。
国際輸送なども請け負っている大企業で、そこそこ安定したいい企業に入れてひとまず安心。
それからいろいろあったのですが、それはまた違う記事でお話しします。
書いてみたらとても長くなったので。
簡単に言うと、自分で抱えきれない量の仕事を抱え、職場の人間関係の板挟みにあい、つぶれかけていました。
ある日いつも通り通勤電車に乗り、いつも通り音楽を聴こうとしました。
ですが、それが途端に面倒くさくなったのです。
イヤホンを取り出し、Walkmanを取り出し、接続して再生する。
いつもほぼ無意識でしていた行動なのに、やりたくないと思ったのです。
自分でそう思っておきながらとても疑問でした。
あれ?なんで?いつもそれでなんとか気分を上げて、必死に会社までたどり着く気力を出していたのに?
この時点で自分の心が限界に近かったことに気が付くべきでしたが、それができる心の余裕がありませんでした。
そのまま地下鉄の雑音に聴覚を押しつぶされて、電車を降りてからは会社まで足を引きずって歩きました。
そんな日が続いて数週間、ようやく壊れたのです。
その日から、うつだと診断されるまでの数か月と、診断書が出て休職し始めた数か月。
その間は一切音楽に触れることができませんでした。
好きだったことが楽しめなくなる、典型的なうつの症状です。
擦り切れるほど聴いたペルソナ3のサントラも、ハマり始めたB.A.Pも、耳障りでしかありませんでした。
しょっちゅう思い出していたのは高校で吹奏楽を辞めた時のこと。
音楽を裏切ったからだ。
裏切ったあの時、やっぱり死ぬべきだったんだ。
その罰を受けているんだ。音楽からの報いを受けているんだ。
やっぱり、私は死ぬべきなんだ。
なのに、勇気がなくて死ねませんでした。
それがさらに情けなくて、また死にたくなるのです。
と、ここまで下書きを置いていたのですが、読み返したときえらい長文でつまらなかったのでここらで投稿しておきます。笑
この件に触れるのはまた今度にして、しばらくは違った記事を投稿すると思います。
ご覧いただきありがとうございました。
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