見出し画像

マルクスが語るマルクスの失敗:マルクスはいかにしてヘーゲルを学びそこなったか

『経済学・哲学草稿』のヘーゲルの『精神現象論』を云々している「哲学」の部分を読んでいますが、マルクスがヘーゲルを決定的に学びそこなった理由をマルクス自身が語ってくれているのが面白いです。

いうなれば、マルクスはヘーゲルの細かな間違いを取り上げて云々することで、ヘーゲルの体系それ自体を批判できたと思い込んでいたということ。

別の例でいえば、アリストテレス哲学の部分的な間違い(例えば天動説のところ)などを取り上げて批判しても、それはアリストテレス哲学の哲学体系そのものを体系的に批判したわけではないということです。

とはいえ、同じことはヘーゲルもカント哲学の物自体論の批判のところでやらかしていますので、事実的批判と論理的批判がまだ混同されていたという時代性があるなと思います。

つまり、体系を批判するには、自らも体系を創り上げなければならず、そこから体系的な理論として反駁しないことには、本当に前の体系を克服したとは言えないということです。

=====================

マルクスはヘーゲルの疎外論を批判していますが、それはヘーゲルの疎外論のほんの部分的なこと(資本主義的労働における疎外)であって、「人間が自らの分身を生み出す」という疎外一般の中で、言及されていない部分を言及したにすぎません。

言ってしまえば、単なる「付け加え」をしたに過ぎないのですが、「付け加え」と「ヘーゲルの体系を作り替えて自らの体系を作った」のは同義ではないというのは、学問に興味のない人にも分かると思います。

また『エンチクロペディ』の理解についても、表面的な観念論と唯物論の差異にとらわれていて、ヘーゲルが何を目指していたのか、すなわちトマス・アクィナスが『神学大全』の名の下にアリストテレス哲学を完成させた意図は何なのかを読むのと同じく、ヘーゲルが学問として完成させたかったことは何だったのか?を読み解くことが大切です。

すなわち、ヘーゲルがやりたかったことをごくごく簡単に言えば、

「絶対精神の自己運動として発展したとみなす自然、社会、精神の現実的な運動を、絶対精神が即自的(an sich)に成長した学問的精神でもってそれらを見て取り、学問的精神が客観的に存在する自然、社会、精神の観念と自らを一致させることによって、学問的精神を即かつ対自的(an sich und fur sich)なものとして完成させる、それと直接に自然、社会、精神を運動性を持った形態で(矛盾という運動形態を含めて)正しく把握する=外界を正しく知ることで対象に安らう」

ということになるでしょう。

一般的にいえば「世界全体を、部分の寄せ集めではなく体系的に把握するためにどのような学的営為を成さねばならないのか?」ということであり、20代でヘーゲルを捨てたマルクスはそれを理解できなかったということです。

なので、後にエンゲルスが「ヘーゲル哲学は観念論的に転倒した唯物論である」と言っていますが、そういう表現をするくらいに対象そのものを知ると同時に、知ったものに筋を通すことを成していたという内実を知る必要があります。

そしてその「筋を通す」ということの「筋」というのは客観的な物体として存在しているわけではなく、観念の世界の観念的実体として存在しているものであり、観念論を排除するに急ぐあまり、論理という観念的に把握されるものも捨ててしまったことがマルクスが学問化できなかった致命傷と言えるところでもあります。

この点で言えば、オイゲン・デューリングに反論するために体系的に考えなければならなかったエンゲルスの方がマルクスよりはまだマシでした。

とはいえ。エンゲルスも同じく20代でヘーゲルを捨て去っており、『反デューリング論』を書いたのは老年に差し掛かっての頃でしたので、学問的にはいかんともしがたいものがありました。

ですので、この「古代ギリシャからヘーゲルまでの観念論哲学(アリストテレス、トマス・アクィナス、ヘーゲル)が成してきたもの」を唯物論の観点から科学的に見たらどのように考えられるのか?ということを体系的に問う必要があるということです。

しかし唯物論とされてきたものは、現在でもそうですが観念の把握がイマイチ、というよりもいわゆる「数値バカ」になりやすいという一大欠陥をもっており、マルクス・エンゲルスの時代はまだ唯物論も幼いレベルだったので特にそうでしょう。

というような形で延々と思弁を重ねながら自らの学問体系構築を図ることが大切なのですが、マルクスの場合は理論家を目指しながら政治運動にハマりすぎて本業の理論の構築をおろそかにしてしまった、そして生活の立て方が中途半端で、エンゲルスの仕送りにおんぶにだっこに肩車状態であり、そこも途中から立て直そうとして手を広げ過ぎて何もかも中途半端になったという現実的な理由も失敗の遠因だと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?