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弁証法の「学びのドアを閉める」:古典の修学と最新研究の学びをいかにすべきか?
先日の記事を少し深掘って考える。
ヘーゲル、ディーツゲンが学問的頭脳力を培ったのは、古代ギリシャの学問形成の内実を辿り返す(ディーツゲンの表現では「哲学の歴史を一身の上に繰り返した」)ことによる。
ディーツゲンはたしかに『マルキシズム認識論』において「造られたる精神は、自然の内部へ透入せず」と表現し、自然科学の発展とその間接的なアシストによって「造られたる精神」はようやくに「自然の内部へ透入」できるようになったと述べている。
それはたしかにそうではあるが、しかし学問力を養成するという点でいえば、そしてヘーゲルの実力養成のプロセスをそれこそ歴史的事実を基に「科学的」に考察してみれば、自然科学の成果なるものはヘーゲル以前およびヘーゲルの同時代までのものはほとんど見るべきものが無かった。
自然科学の発展はヘーゲル以後に、ヘーゲル哲学を母体にして生まれたものであり、いわば「ヘーゲル・パラダイム」の産物である。
よって、ヘーゲルが実力を養成するにあたって、自然科学の成果なるものはほぼ存在しなかった(せいぜい、メンデルの遺伝の法則、ケプラーの天体運行の法則などが知られていた程度)ため、利用したくても利用できなかった。
にもかかわらず、ヘーゲル哲学は、その後の自然科学の発展に先行し、それらの母体となったのである。
ここから、私の目的と合わせて考えてみれば、着目すべきはヘーゲルの実力養成の過程である。
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南郷先生も、三浦つとむ、滝村隆一両氏の著作での引用以外にヘーゲルを読んだことは無かったにもかかわらず、弟子に講義をしていると弟子が「それと同じことをヘーゲルが言ってました」と言われることが多々あったとのことだが、南郷先生のこの事実もまた同様の論理であると考えられる。
南郷先生は武道空手の修練と併せて「弁証法は哲学の生まれ変わり」として、空手と弁証法を一体のものとして修練を積み重ねてきた。
そこを土台にして武道科学、そして武道哲学を確立していったが、その際にヘーゲルを直接読んでいないにもかかわらず、ヘーゲルと論理的に同一(しかし論理の筋としては観念論と唯物論の違いはあるため、厳密には同一ではないけれども)の学問力の養成過程を持つことができた。
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前置きが長くなったが、何を言いたいかといえば、端的には以下の通りである。
それは「学問構築のための学問力の修練は、自分が確立したい専門の個別科学の事実や知識の集積とは全く異なる営為である」ということ。
自分の確立したい分野について詳しく知ったり、考えたり、それらをまとめてみたり(総括)・・・といった、世間一般でいわゆる「研究」と称されているものをいくらやっても学問を構築することはできない。
学問を構築するには、ヘーゲルが同時代の最新研究をほとんど無視に近い形で古代ギリシャ学の内実に没頭してそこに学問形成の端緒を見出すべく概念の労苦を積み重ねたように、あるいは南郷先生が学問形成にあたってヘーゲルに直接学ばずに武道空手と弁証法の個別かつ一体化的修練を通してヘーゲルを超える高みにたどり着いたように、学問力養成を主眼とした修業過程を持つ必要があると考える。
そこでふと思いあたったのが、「弁証法の学びのドアを閉じる」と南郷先生が表現していたこと。
大秀才とされる人達がことごとく学問形成に失敗した一大原因の一つに、「弁証法の学びのドアを閉じ忘れた」ということがある。
自動車に乗る時にどうするか?まずドアの前に立ち、ドアを開け、そして車に乗り込む。
ここまでは誰もができるのであるが、大秀才と呼ばれる人たちは得てして自動車に乗り込んだら、ドアを閉めることなくそのまま走り出してしまう。
そうなればどうなるかは幼稚園児でも分かるとおりであり、実際、「弁証法の学びのドアを閉めず」に走り出して、そのまま学問的大事故を起こして失敗してしまった。
ではその「弁証法の学びのドアを閉める」とは何を意味するのかといえば、弁証法の筋を通せるレベルの事実のみで事実の収集を閉じる=完結させること。
これが学問力とどうかかわるのかといえば、自分の学問力=論理能力の構築の修練と、いわゆる事実、知識の収集を分けて行うこと。
別言すれば、学問力構築の修練を主体として、事実や知識の収集・研究は「やっても棚上げして、脇に寄せておく」という二重性の学びが必要だということ。
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私の志である兵法の学問化を例に具体的に言えば、近現代の軍事学や軍事実践の様々な知識や事実、経験などは、それはそれとして機会があれば学ぶことがあっても、そういった細微な事実については自分の学問力ではしばらくは学問的体系化の筋を通すことはできない。
そのため、そういった兵法において、言ってしまえば「枝葉」の部分に関しては、それを学んでも「脇に置いておく、棚上げしておく」という学び方をするということである。
では肝心の兵法の学問化はどのように修練するのかと言えば、兵法の原点である兵法二天一流・武道剣術を中核とした、大分の兵法までの発展を視野に入れた武道・武術の修練とその体系的理論化(概念の労苦)を積み重ねることにほかならない。
流祖・武州玄信公(宮本武蔵先生)も『五輪書』火の巻まえがきにおいて
「常々稽古の時、千人万人を集、此道しならふ事、成る事にあらず。独太刀をとつても、其敵々の智略をはかり、敵の強弱、手だてをしり、兵法の智徳を以て、万人に勝所を極(中略)おのづから奇特を得、通力不思議有所、是、兵として法をおこなふ息也」
と述べているとおりである。
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ここから導かれることは、私の目指す「兵法」とは、既存の軍事的な知見をあれこれとモザイク的な集合体として寄せ集めたものではない。
それは兵法二天一流玄信派の目的である「流祖・武州玄信公の真精神」、そして私が代表を務める兵法二天一流玄信派・極星会の名前のとおり宮本武蔵先生の「目標の極み」を実現することによって、既存の軍事的な知見や技能などのアレコレをきちんとした体系の中に位置づけて、二天一流の体系を扇の要、諸々の知見のいわば「冠石」としてまとめ上げることである。
なので、現代の軍事学やスキルなどは「学びかつ脇に置いておく」というスタンスでいて、ヘーゲルが古代ギリシャの学問に、南郷先生が武道空手と弁証法に没頭したように、私も兵法二天一流・武道剣術を中心とした古武道(剣・柔・弓)に没頭することで成し遂げていくものである。
たしかに私は、特殊作戦群、グリーンベレー、SAS、外人部隊第二落下傘聯隊、サイェレット・マトカルといった現代戦におけるトップレベルの戦闘能力を持っている集団に属していたわけではないし、そういったところまでたどり着くための訓練をするには年齢を重ねすぎてもいる。
また、参謀本部中枢での勤務経験もなければ、国家戦略に直接に関わり合いになれる立場でもないし、学術機関に身を置いて専門的な知識を得らえるわけでもない。
しかしながら、そういったあらゆるレベルでの現代の軍事の世界のトップが逆立ちしても手に入らない能力を、武道・武術の研鑽をとおして獲得し、それをもって兵法を構築することで、そういった現代の諸々の軍事、世間一般の想像するところの「兵法」の範疇に属するものも、傘下に収めるものを形成していくのが、私の修学の道である。
南郷先生の説く本来的な哲学者とは何か?ということの一つとして言われているのが
「世界中のありとあらゆるトップレベルの研究者たちの研究を全部集めたものよりも広く、かつ世界中のあらゆる研究者に研究の指針を与えて、全てのトップレベルの研究者たちに、その専門分野に関して指導できる能力を持つ」
ものが、本物の哲学者の実力であるということ。
これと同じことを兵法として軍事に対して行えるようになることが、私の目指す「兵法」の実態の一面である。
もちろん、これは大分の兵法に関する話であり、同時に一分の兵法とはなにか?ということを究明し、これらをさらに統合かつ統括して「兵法」の学問体系と為すものであるのは言うまでもない。
これらを総称すれば、「人間にとって戦うとはどういうことか?」という「戦い一般」から全てを説きおろし、説ききる(解ききる)ことであり、そこから個別バラバラな知見を一つの体系として組織化することである。
事実としてやりきるには私の寿命はあまりにも短すぎる。しかしその中核部分を兵法として遺せば、後に続く志を持った人間がより見事に発展させながら、私のやりきれないであろう枝葉の部分に至るまでをやり切った体系として完成させてくれるであろう。