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古代ギリシャ哲学の学びと兵法の学び
つぶやきには書ききれないので、この媒体に記す。
ヘーゲルが学問構築の実力を培ったのは、ひたすらに古代ギリシャの学問的実態を繰り返し学び返した(ヘーゲル曰く『概念の労苦』)ことによる。
同時代の最新の学説や知識ではなく、ひたすらに古典古代の古代ギリシャにおいて哲学として形成された一連の流れ、すなわちパルメニデスからゼノン、そしてソクラテスを経由してプラトンからアリストテレスに至り古代ギリシャ哲学として完結していく、その内実、学問はいかにして形成されてきたのか?という構造を見て取るべく、執拗に古代ギリシャの内実を探っていったものである。
同じことをヘーゲルからも独立に、大学に行かず独学で行ったのが、ヨセフ・ディーツゲンであり、だからこその、ディーツゲンの主著『人間の頭脳活動の本質』の冒頭で、見事なまでの学問の構造の定義がなされている。
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ここでふと思った。
ヘーゲルは同時代の学問をほとんど学問研鑽の俎上に上げず、ひたすらに古典古代の古代ギリシャの学びを繰り返して、同時代どころか現在に至るまでの学問への影響を与え続けている哲学を形成した。
であれば、哲学と同じ構造を持つ兵法についても、ヘーゲルの研鑽の過程と同じことが言えるのではなかろうか、と。
ヘーゲルが同時代の最新の研究ではなく、古代ギリシャの学問が形成された過程を繰り返して学びながらその構造を少しずつ会得していったように、兵法も近代軍事学を寄せ集めるのではなく、原点である(古代ギリシャの哲学にあたる)武道・武術の学びをひたすらに繰り返して、兵法の構造を識るべく、兵法における「概念の労苦」を厭わず繰り返して学ぶことこそ近代軍事学の成果とされるものをも包含していく兵法の学びになると直観した。
現代の学問研究に従事している人間で、古代ギリシャをヘーゲルやディーツゲンのレベルで学んでいる人間はほぼ皆無であるのと同じように、兵法の研鑽のために武道・武術を学ぶ人間もまた皆無であろう。
その道を照らすことがおそらく私がこの世で為すべきことであろう。