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「気」とは何か?〜気の二重性〜

 有給消化という半月余の「余暇」を使って、しっかりとnoteを書いておきたいとして書いて来たが、この機会に自身のアタマを整理して(特に自身の専門分野については網羅的に)おきたいと思う。そしてそれが「素朴な絶対精神」(?)となっていって、今後の実践によってその自身の中身を知っていくことで、やがては「完成された絶対精神」へとなっていくことを!と思う。

 そういう意味では、これまでは自身の能力を超える、書くと嘘になってしまうと避けていた部分も、現在の理解、アタマの中の映像はそういうものなのだ、そういうものでしかないのだ、ということなのであるから、あえて書いていくべきだ、と思えている。

 さて、「気」とは何かという問題。東洋医学は「気」の医学とも言われ、やたらと「気」という言葉が使われる。自身でも東洋医学的にはといった場合には、「気」の問題として捉え返して説き直すことを常としている。では、そもそも「気」とは何なのか? その自身のアタマの中の映像を書いてみたい。

 我々日本人は、空気、やる気、雰囲気、気力、色気、気分等々と「気」という言葉を日常的に使う。その場合は、目に見えない、何か力、性質があるといったもの、また精神的なものに、「気」というものがあるとして使っている。

 また、東洋医学を専門とする人々の場合は、人間の体の働きを指して、「気」という言葉を使う場合が多いが、それを通常よりは実体的なものとして、気の流れとか、気が滞るとか、気が不足している、という使い方をする。とはいえ、その「気」の根源は何かといえば、親から受け継いだ先天の気(精)であり、天の気(五気)、地の気(五味)であるとするから、一般的な理解とそう遠いものではないと思える。

 では、そもそもの「気」というものを歴史的に原点に返って(帰って)考えてみると、いかなることになるのだろうか ?観念論の立場に立つならばともかくも、唯物論の立場に立つならば、「気」とは人類が創ったもの、誕生させたものであり、この世界=森羅万象の中の何かを「気」として捉え返したものであるはずであるから。

 例えば、鍼灸学校の教科書である『東洋医学概論』(教科書執筆小委員会著 医道の日本社)を見れば、「数万年来、定着農耕を主要な生活手段としてきた中国大陸の人たちにとって、四季の変化が正常に運行するかどうかは切実な関心事であった...…四季の季節特徴を生(春)・長(夏)・収(秋)・蔵(冬)として捉え、この四季それぞれの季節の特徴的な働きを「四気」といい、それによってあらゆる生命活動が影響を受けていると見る...…「気の思想」...…」「...…「気の思想」とは、宇宙の生成から生命現象に至るまで、全て「気」を根底に置いて理解し、解釈しようとする考え方である...…老子や荘子らによって「精気思想」として発展した...…『呂氏春秋』は、生命現象の基本に「気」を置き...…病の成因を気の鬱滞として捉える考え方が述べられている...…」等と解説されている。

 以上、要するに、「気」には2つ。1つは、観念論的な世界観として、「気」が大元にあっての、全ては「気」の転成したものであるとするもの。(ここは「絶対精神」(ヘーゲル)の問題として捉え返すと面白いかもしれない。)これは、唯物論的にいえば、物質の機能である「気」を、それを逆立ちさせて、機能=「気」が物質を生み出し、働かせているということになる。

 もう1つは、東洋医学としての、経絡を介して全身を巡り、生きるということの正常を保つものとしての「気」である。これを自身では、唯物論的には、全身的な神経の働きと血流による熱と栄養(酸素等を含めて)の循環・補給という働き、という機能を実体として捉え返したもの、と捉えて使っている。

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