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大人のバドミントンの難しさ〜もどかしいの二重構造〜
バドミントンを始めて1年余りが経つ。当初は、ムエタイ(キックボクシング)の準備運動として、長くても半年くらいでキリをつけるつもりでいたものが、なかなかに上達しがたく、もう一月、もう一月と、これまで来ている。自身の体が自身の思い通りに動いてくれないということの、もどかしさの毎回毎回となっている。
昨夜のバドミントン教室、ようやくにバドミントンらしき形で打てるようになってきたと思えるが、バドミントンを始めて1年余りが過ぎたことからすれば、その上達のあまりの遅さに我がことながら呆れてしまう。(当初のバドミントン教室は、ともかく打て、もっと早く、もっと勢いよく、というものであって、基本の打ち方というものを、まともに時間を取って教えてもらえなかったので、それを含めないとしても今月末で7ヶ月になる。)
現在のバドミントン教室は、ラケットの持ち方、基本の打ち方、基本のフットワーク、そこからのスマッシュ、ハイクリア、ロブ...…と順序立てて教えてもらえ、指導をくださるコーチも、「バドミントンは力任せにラケットを振り回すのではなく、しっかりと足を運んで、基本の打ち方で打つ、それだけのこと!」と対象の構造を単純化して捉え返せるレベルの方である(実技としても全日本シニアの上位ランクの方である)にもかかわらずの、遅々たる上達であるだけに、どうしてうまくいかないのか!?と考えさせられる毎回毎回である。
では、そのもどかしさの中身はといえば、基本の打ち方で打つ分には、それなりにまっすぐに勢い良く、あるいはコート遠くまで大きく打つことができる。ところがそれを例えばスマッシュやハイクリアという形で、半身になって右足に体重を乗せて、バックスイングをして、左足に体重を移して打つ、という形にすると、本来ならばより勢い良く打てる、遠くまで飛ぶはずなのであるが、逆に勢いがなくなってしまう。
自身の感覚としては、フラットに打たずにカット気味な打ち方になってしまう。そして、それを意識してまっすぐに打とうとしても、勢いよく振るほどに、「体が勝手に」である。
これはおそらく、それまでに身についている「もの」(テニスラケット、刀等)を振るという力の込め方の技としても、その技のイメージとしても出来上がっているものが、形を取るという意識から、勢いよくという意識になると、顔を出すと言うか、それまでの身についた技が邪魔をするということである、と。
そのように考えると、これはまさに技のモデルチェンジの問題(南郷継正の説く)の問題であると思える。
であれば、技の形(実体の問題)のみならず、技のイメージ(認識の問題)としても、変えていってやることなしには、まともに、バドミントンの技で打てるようにはなっていかないもの、と思えている。
そういう意味では、自身のバドミントンの学びは、単なる武術修行の準備運動としての、人間体の鍛錬ということのみならず、技のモデルチェンジの論理、の自身を実験体としての実験であり、その論理的事実を持つ貴重な場である。認識と実体の実験の場であると思える。
そしてまたそのことは、例えば患者の「姿勢矯正」の問題としても、何故になかなかに「膝重心+骨盤後傾」体から「股関節重心+骨盤前傾」体へと変わっていかないのか?変わるように指導ができないのか?ということの論理そのものである、とも思えるだけに、引き続き地震自身の認識と実体が変わっていくまで、変えれるまで、バドミントン教室に取り組んでいきたいと思う。