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「もう年だから」は本当か?〜老いる・衰えるの二重性について〜
日々接する患者さんと、もしかしたらこれから関わるリハビリデイサービスの利用者さんへの自身の思い。
「老いる・衰える」ということにも二重性がある。人間本来の、ヒトとして、動物としての老い=衰え、と認識が関わっての老い=衰えの二重性が。
自身の日々関わる患者の多くは、70代、80代、90代であり、いわゆる高齢者とされている人々である(国の定義としては、65歳以上が...…)
その患者から度々聞かされるのが、「年だから仕方がないと先生(医者)に言われて、そう言われるとそれ以上返す言葉がないのだが...….自身の病はどうしようもないのでしょうか?一生付き合っていくしかないのでしょうか?」(例えば膝の痛みに対して)との言葉である。
それに対しては「そんなことはないですよ。確かに人間は誰もが衰えていってやがては死んでいくのですけれど、それゆえに年齢とともに衰えていくということには避けられない面はあるのですが、それと膝の痛みとはイコールじゃない。リハビリで(自身の所属がリハビリ室であるから、リハビリという言葉は使うけれども、実質は手技の施術)痛みが軽くなったり、治っていったりする部分はあるから...…年齢とともにの衰えで、自力だけではなかなか治っていかなくなってくるけれど、ちょっと手助けしてやれば、治っていくということはありますよ。少なくとも痛みが軽減されて楽になるということはあると思います。年齢だからと諦めてしまわないで、リハビリ頑張ってみましょう。」と答えることを常としている。
その時の自身のアタマの中の映像は、人間本来の生活(食、運動、睡眠)のあり方に、想像される患者の、膝を痛めるような生活の一般的なあり方を重ねての、であり、そこからの「膝はいつから痛みますか?」「それ以前はどうでしたか?」「何か運動はされていますか?」「夜は眠れていますか?」「食事はバランスよく取れてますか?」...…等と事実確認、アタマの中の映像と事実との突き合わせ。
そのようにして、患者の事実確認をしていくと大抵の場合、「それじゃあ膝も痛くなるようなあ!?」との思いへとなっていく。
例えば偏った食生活。睡眠不足。使いすぎたり使わなさすぎたりの運動のあり方。風呂に入らない(湯船に浸からない)等々(これら人間の一般的な生活の整えについては、「人間は何を食べるべきか?」「人間はいかに眠るべきか?」「人間はいかに運動すべきか?」等として自身のgooブログの記事を転載しているので興味のある方は、と思う。)
そうやって思い浮かんだ中で一番受け入れやすそうなものを、とりあえずは1〜2提案して、となるのを常としている。
以上要するに、人間の老いによる衰えにも、それゆえに仕方のないものとされているものにも、二重性があり、1つは人間本来の別言すれば、動物として、ヒトとして避けられない、当然あるものとしての老い=衰えと、本来ならば無いはずのものが、自らが創り出した、あるいは周囲によって創り出された、不適切な生活(食、運動、睡眠)によって引き起こされたところの、老い=衰えとの二重性がある。ということであり、それゆえに、生活(食、運動、睡眠)の整えによって、またそこに手技施術(これもまた運動である)を加えることで、回復していく、軽減していく可能性は大きくある、ということである。
また、自らの認識が創り出した不適切な生活は、逆に、それをより本来のあるべき姿に近づけてやることで、自然成長的な動物レベルの本来の生活のあり方よりも、より見事に、ヒト本来の生活のあり方に近づけてやることも可能なのであり、それによって本来的にも老いていく、衰えていく年齢にも関わらず(これは40歳が境とも言われているが)、若い頃に負けぬくらいに!ということも可能となっていくものである。
そのような実例は、時に見聞きするし、何よりも現在の自身が持ち得ている現実である、と思えている。
姿勢の歪みとその姿勢のままの使い過ぎで膝を痛めて、7年近くも悩まされ続けていたものが、生活(食、運動、睡眠)の整えによって、それに加えて、昨年2月からの「股関節重心+骨盤前傾」体への姿勢矯正によって、完治状態となっているのみならず(その痛みがないというのは、安静状態の、あるいは日常生活レベルのそれというだけではなしに)、日常的にそれなりにハードに運動しての、例えば山を走る(1時間余)、バドミントン(約2時間)等を行っても、であるし、今春よりは、ムエタイ(キックボクシング)を再開してという自身の現在である。
ついでに言えば、自身は去年から「介護保険証」が送られてくる、国の定義する高齢者の年齢ではある。
そうであるからの、老い=衰えの二重性の把握であり、それだけに、「まだまだ回復の余地があるはずなのにどうして諦めてしまうのか ?どうして諦めさせるような医者や医療・介護関係者の発言があるのか ? 」との、何ともやりきれない思いもある。
とはいえ、かくいう自身も正直に言えば、7年にも亘ってあらゆる手を尽くして治療しても治り難かった、痛みから変形へとなっていきつつあった膝痛に、(膝の痛み具合の確認のためにレントゲンを取った時の医者の、「もう年齢も年齢ですし、無理はできませんよ。」と言われたこともあって)、「そうだよなあ。もう年齢も年齢であるし、仕方がないのかもしれない。」と半ば諦めの境地になってしまっていた時もあったのだが...…。
それだけに、高齢者とされる、自身の老い=衰えを実感して、諦めようとする皆さんに、「まだ大丈夫!もう少し頑張ってみましょう!自分1人では無理でも誰かの助けがあれば...…自分1人で悩んでいるよりも良い明日がきっと来ますよ!」と励ましの言葉を送りたい、と心から思えている。
もちろんどんなに手を尽くしてもどうしようもない、という場合もあるとは思う。その時に初めて、「しゃあないな〜、誰もがいつかは老いて衰え、死ぬのだから。」と諦めれば、と自身のこととしても思っている。
ここの二重性は、論理としてはナイチンゲールがすでに『看護覚え書』でしっかり説いて(解いて)いる。「病とは回復過程である。...…その回復過程に伴う苦痛は必ずしも病気によるものではなく...…看護の不足あるいは不適切によるものである...…」と。(原文を参照していないので不正確であるが、ナイチンゲールの言うところは要するにこういうことだと思う。)