見出し画像

余暇(スコレー)について〜ココロの余裕は学問のための第一歩〜

 本棚の整理を行った。掃除・片付けの大事性とともにココロに余裕を持つことの必要性を痛感する。

 昨日は、もう読み返さないであろう本を処分して、新たに使いやすい形へと本棚の整理をすることに手をつけ始めた。

 理由は、その時々の興味・必要性で購入した本が、ほぼ整理されていない形で山積みとなってしまっていて(三年ほど前の引っ越しで一度処分したものの、本棚10台+段ボール数個程度ある)、欲しい本がすぐに出てこないという状態にまでなってしまっている。

 それゆえに、いつか片付け・整理せねばと思いながらも、日々のあれこれに追われ、またその量の多さに手をつけかねていたというこの数年であった。

 本当は、日々の暇な時間を見て、本棚の1台ずつでも、ダンボールの1個ずつでも手をつけていれば、1ヶ月もあれば片付いたはずのであったにも関わらずである。

 これは、本当にはそれが必要であると思っていなかったから、とも思える。確かに日々は、それをやらずともなんとかやってこれたからであるし、本棚の片付けよりも優先すべきことがあった、優先すべきと思えることがあった、とは思う。

 しかしながら、人類の歴史を振り返ってみるならば、知識の集積から、その膨大な知識を整理して体系化していくことこそが、学問の誕生の第1歩・原点である(と自身では捉えている)ということからも、理論的実践家であろうとする自身にとっては、それは何をさておいてもなすべきこと、のはずである。(そういう意味では、日々の整理・片付け・掃除ということがいかに大切であるか...…感情レベルで自身のアタマを学問的に作り上げていくという意味で......)

 にもかかわらず、それをなさないということは、学問的なアタマを作るということの放棄というに等しい......。

 要するに、人類の学問の誕生云々ということは、単なる知識にすぎなかったから、知識レベルでわかっていても、理論的レベル(ヘーゲル)ではわかっていなかった、別言すれば感情として自身を動かすものではなかったということなのだろうか?

 それは確かにそうなのであろうとは思う。しかしながら、人類の学問の歴史を振り返るならば、事実・知識の膨大な積み重ねからだけでは、学問は誕生しえなかたということからも、自身がそのことの本当の大事性に気づくには、欠けたるものがあった、ということだと。

 そしてそれには2つのことがある、と思える。1つは、知識の積み重ねが膨大なものになっていって、そのままでは手に負えないというところまで積み重なっていくということ。(人類が何かを成したということは、そうすべきだからではなく、むしろそうせざるを得なかったから...…と誰かが言っていたが)

 そして、もう1つは、その膨大な知識を見直して眺めていくだけの心の余裕が無かった、日々のあれこれ追われている状況では、それはできなかったのだ、ということだと。

  『ギリシャにおいていわゆるフィロソフィアが生み出されるには、それまでのオリエントの文化を学ぶのみならず、それらを一体化して、全体として眺め渡せるようになるための余暇を持てる段階に達することが必須だったのである。』(『哲学・論理学研究(第1巻)悠季真理 著 現代社白鳳選書107)

 そういう意味で、現在の有給消化の休日のありがたさを真面目に捉え返して、(「ミネルヴァのフクロウは黄昏に羽ばたく」(ヘーゲル)なのだから)、残りわずか1週間となったが自身の新たなスタートのための余暇(スコレー)としていきたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!