私権制限は災害時に緊急に必要ではないか
左派の人が「憲法改正などしなくても私権制限は行えるのだ」というのだけれど、例えば、新しい道路を作るからといって土地買収をするときにも、地権者の人が「私は絶対売らない」と言うとそこで交渉は難航することになる。
路線価が決まっていて一定の商取引の経験がある土地の買収ですらそうそう簡単にはことが運ばないのである。もちろん、地域社会のためには快く土地を譲ってくれる人もいる。場合によっては対価もいらない。寄付しますと言う人もいるわけである。
緊急時の私権制限はその人の自由の制限ということになる。その私権制限によりその人の感染リスクは下がることになるので、制限することにはその人の利益もある。けれども、例えばその緊急事態には自分は関わっていない。私権制限は自分に何の利益をもたらさず、単純に自分の損失であるという人もいるかもしれない。こういうときに自由の値段はどうやって算出するのであろう。
また、今般の新型コロナウイルス感染症の流行においても事態は急激に動くので、補償の額をどうするかについては早急に決めないと意味がないことになる。いくらロックダウンを行おうと思っても、「新型コロナウイルス感染症はただの風邪です。私は補償額に納得しませんので自由に行動します。補償額をあげて、それが納得する額であればロックダウンに納得します。また来週話し合いましょう。」という人が何人もいれば結局、穴だらけの規制になってしまうのでロックダウンにはならないのである。
もう一つは財源であろう。今のように東京都と大阪府などのいくつかの都道府県だけロックダウンするというならともかく、昨年の一番最初の緊急事態宣言のように全国民を対象にしたロックダウンを行う場合には補償の財源をどうするのかということになる。例えば年収1000万円以上の高所得者に増税して泣いてもらおうということになれば、その人たちは事実上補償はされないことになるので、その人たちが「私たちは皆さんに支払っているだけで、自分への補償は差し引きマイナスなのだからロックダウンで自由を制限される謂れはないですよね」と言い出すとロックダウンは不完全になってしまうのではないか。
という点では彼らのいう私権制限はとてもじゃないけれど実用的なものにはならないのではないか。
そういう理屈を考えることは楽しいのかもしれないが、現実に役立ちそうもない方法を主張して満足するだけでは無意味というだけではなく、いざというときに役に立たないので害悪ですらあるだろう。
今回のコロナ禍だけではなく、東日本大震災や熊本地震のような地震災害、雲仙・普賢岳の噴火など火砕流を発生させる噴火災害、台風や大雨による風水害など、国民の安全を守るための緊急を要する私権制限はこれからも必要であることはいうまでもない。
そのような災害の事態で、国民の安全を守るために私権制限をいかに適切に実行するかという視点からの議論が必要であろう。