躾として暴力を振るうことや怒鳴ることが有害な理由

いや、「暴力を振るわれて『躾』を受けた」というのはもう昭和の価値観と言っていいだろう。私も平成年代にはいきなり誰か知らんけれどおっさんが診察室に来て「先生、僕はねえ、体罰は躾に必要だと思っているんです」と述べて、こちらが呆気に取られている間に出て行った人がいる。

いやそれはあるよくない行動を矯正する時に暴力を振るうと、子供は暴力を振るわれたことでそれはやったら殴られるからヤバいという認識を持つかもしれないことで一定の抑止効果を持つのだという主張はあるのかもしれない。

けれども体罰は副作用が大きすぎるわけである。一つは怒鳴られることもそうであるが、親などから殴られたり怒鳴られたりすることで子供の自己肯定感は下がり、自尊感情も毀損されてしまうわけである。

体罰の副作用ー負のスパイラル

なぜ殴られなければならなかったのか。それは僕が悪い子だからだ、という負のスパイラルに入り込んでしまうと、悪い子なんだから殴られたということは自分は悪い子なんだから勉強しなくていいじゃない、親の言うことに逆らって何が悪いの?と言う方向にどんどんとはまり込んでしまうかもしれない。

どうせ自分は悪い子なんだから勉強なんてできない、しない、と言うと不登校にも結びついてしまうだろうし、そこから行為障害(要するに非行少年)に向かってしまうとそのうち、立派な反社会的人格障害に至ってしまうかもしれない。

特に自尊感情の低下しやすいADHDの子などはこういう負のスパイラルにはまり込みやすいのである。けれどもADHDではない定型発達と言われる子供達だって、殴りまくって報酬系を働かなくすれば同じことが起こるかもしれない。

体罰の副作用ー515事件や226事件

もう一つの副作用はもちろんであるが暴力に対する閾値が下がることである。515事件で暗殺された犬養毅首相はその暗殺者に「話せばわかる」と言ったそうであるが暗殺者の軍人に銃で撃たれて殺されたそうである。

軍人にしてみればそれは暴力が仕事であるから、暴力を振るって何が悪いということだったのかもしれない。「話せばわかる」などちゃんちゃらおかしいという気持ちだったのかもしれない。けれどもその後に起こった226事件では時の昭和帝は兵二告グで暴力を否定し、反乱兵に原隊復帰を命じたわけである。

「統帥権干犯問題」では兵権は文民のコントロール下ではなく皇家の大元帥が掌握するものという主張があったが、その大元帥たる昭和帝に「お前ら反乱軍」と認定されては流石のクーデター軍も大義名分を失って帰順するより他なかったわけである。

殴ったり怒鳴ったりするだけでは解決策は伝えられない

怒鳴ることもそうであるが安易に暴力を振るうことの問題点はそもそも祖も人がなぜ殴られなければならなかったかの説明が一切ないという点が挙げられる。その子が確かに規則違反をしていた、ということがあっても、いきなり殴られたのではその規則違反と受けた暴力を結びつけることは困難である。そうなれば子供達はなんだかわからないが暴力を振るうことで全てケリをつけるべきなのだと学習することであろう。

怒鳴りつけることも同じで、いきなり怒鳴りつけられたら子供達のとる行動はまず耳を塞ぐことであろう。そうなると、怒鳴りつける言葉にいくら高邁な理想が語られていたとしても耳を塞いでいる子供には伝わらないことになる。

更に、である。そうやって殴って事足れりということでは、子供たちはまあ何か自分が規則に外れることをやってしまったのかと自分の行動を検索して例えば怒鳴りつける言葉の断片から「あ、あれだ」と殴られた理由を想像することができるかもしれない。けれどもそこで終わりなわけである。

殴って怒鳴られただけでは次回同じような問題が起こった時に「あ、これをやったら怒鳴られて殴られるよな」ということはわかっても問題を回避する方法はわからないので同じように失敗してまた怒鳴られたり殴られたりという結果になります。親の方は「なぜ何度言われてもわからないの!」って怒鳴りつけるかもしれませんが、いくら怒鳴っても解決策には到達しないので同じことを繰り返すことになるだけである。

暴力を受けて育った子が親になった時の暴力への閾値の低下及びDV

そうして殴られて怒鳴られて育てられた子供たちが親になった時にどうなるか。もちろん自分の子が品行方正、親の方が参ったという子供もいるかもしれない。けれども、多くの子どもはヤンチャで決められたルールを逸脱することが多いものである。そんな時に殴られて育った元の子供達である親はどうするか。当然子供を殴りつけることだろう。そうして躾をした気になるのである。もしくは気分よく怒鳴り散らして躾をした気分になる親もいるかもしれない。大声で怒鳴りつけるというのは結構気分よくスカッとするものなのである。

残念ながらそんなことをしてもその親が子供の時にそうだったように、解決策や回避策は何も伝わらないので、子どもは何度も同じ失敗を繰り返し、親は何度も暴力を振るい、怒鳴り散らすことになるわけである。結局進歩は何もないのである。

さらにいうとそういう暴力が配偶者に向けられるとドメスティック・バイオレンスつまりいわゆるDVになるわけである。子供の躾に同じことをやって失敗しているわけである。大人に向けたって同じことであろう。夫がちゃぶ台をひっくり返す時、もしかするとそこにはなんらかの妻へのメッセージが込められているのかもしれない。けれども残念ながらそれは伝わらないわけである。妻が夫に怒鳴りつける時も同じである。怒鳴りつける時に込められたメッセージは耳を塞いだ夫には伝わらないのである。前者は身体的暴力につながるだろうし、後者は精神的暴力ということになる。もちろん後者は妻からしてみればなんら暴力ではなく衷心からの忠告であるという自己認識かもしれないけれど。

離婚事例ではたとえ事実がなくても妻は行政にDVの申告を行えるし、そういう制度では全く証拠がなくても、もしくは全くの無実の罪で夫をDV犯に仕立て上げられることは離婚弁護士さんが告白していたこともあるが、そういうのは別にしても、暴力的傾向があるとそれがDVと受け止められやすいことは間違いないであろう。まあ女性からの暴力はたとえ夫を殺したレベルの暴力であったとしてもそれは妻のせいではなくて夫が悪いのであるという認識が得られやすいので暴力とは認定されないのが日本の法律や一般通念になっているのかもしれないけれど。

じゃあどうすればいいの?解決には

じゃあどうすればいい?ということになると、これはもう暴力を抑制する以外にないのである。自らの暴力性を認識して、自分が親に振るわれた暴力、怒鳴られた経験を思い出して意識化し、自分はそういうことはしないと心に決める以外にない。こういう作業はカウンセリングでやるのもいいかもしれない。

けれどもヤンチャな子はルールを破るのである。そういう時どうすればいいの?という人もいるかもしれない。「怒らない躾」っていうけれど、ルール違反をした子供を放っておくともっと調子に乗ってルールを無視するんじゃないか。

そういう子供をどう叱るかという点ではまず怒鳴らないことである。いや、怒鳴ることは快感なのでしばしばその誘惑が起こってくる。まず重要なことは子供に命の危険がないか確認することである。

ダンプカーが走る車道で子供が機嫌良く絵を描いていたらまず怒鳴るより子供を歩道に引き寄せるべきである。そうして子供の安全確保を行うべきである。

その後も殴ったり怒鳴ったりするよりまず考えるべきは子供がどのルールを破ったのかを確認すること。子供がそのルール違反を行わないで済むにはどうやるべきかについてどう説明しようかと考えるべきである。

怒鳴りたい、殴りたいという衝動は結構一過性のことが多いので、親が冷静に考えているうちにそういう衝動は波を引くように消えてゆくことが多い。そうして一旦冷静さを取り戻せば暴力を使わずに躾をする方法が見えてくるわけである。

もう一つ言うと、「それでは子供に示しがつかないのではないか」と心配する親がいるかもしれない。ガンガンと殴り倒してこそ親としての威厳が保てるのだと言う。

けれども、自分が子供の頃を思い出してみるべきである。子供達は悪さを親に見つかることを恐れているのである。別にわざわざ殴ったり怒鳴ったりしなくても監視していると言うことを示すだけで十分なのである。

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