児童虐待の受理件数が更に増えている
児童虐待の通報受理件数が21万件を突破しているそうである。
平成2年頃の通報件数が千件程だったのに比べると雲泥の差ということになる。
これを「日本人は虐待しまくるようになった」と認識するのはもちろん間違いである。むしろ、それまで虐待とはみなされなかった虐待ケースを虐待と正しく認識するようになった人が増えたこと、「隣は何をする人ぞ」ということで隣家で騒ごうとも我関せずで無視していた人が無視しなくなった結果という点が多いのではないか。
面前DVなんて一般に知られるようになったのはここ数年、10年くらいなのではないか。今ではnoteで「面前DV」と注釈なしで使ってもそれほど違和感は無くなってしまった。逆に何でもかんでも「夫のDV」=子どもへの虐待と主張する人が増えてしまったような気がする。特に母親が子供との一体感を求める風潮には一言は言っておきたくなるくらいである。
父親に虐待性向があるのか
父親に暴力的性向があるというステレオタイプを蔓延させ、正義の母親と悪い父親という方程式を紋切り型に押し付けるようになっている傾向もなんだかなあというレベルである。
いや、このようにシングルマザーの交際相手の男性が身体的虐待を行うという事例はしばしばニュースとなって世間を騒がせることがあるのだが、実父以外の父つまり、義理の父、内縁関係による加害というのは全体でも5〜6%に過ぎない。厚労省の福祉統計では虐待の加害者の47%は実母である。実父は41%である。
念のために言っておくと警察庁の虐待統計は起訴事例の統計なので証拠が残って基礎になりやすい身体的虐待が集計の主になるので、父親の件数は母親のおよそ2倍になっている。多分、身体的虐待や性的虐待については父親が多い。ということで証拠の残りにくい心理的虐待とネグレクトでは実母の加害が多いということが推測できるわけである。フェミニストさんがしばしば騒ぐ「面前DV」も心理的虐待の一部であるが、それが騒がれ出してからも比率は大して変わっていないので、「面前DV」の影響はそれほどは大きくないのかもしれない。
実父以外の父による暴力傾向は哺乳類に一般的である
義理の父が虐待行動をとることは、ヒトの類縁種であるチンパンジーでもオスが子持ちのメスを奪うためにその子を殺す事例がある訳で、そのレベルではあり得る話である。
チンパンジーなどでは乱婚なので、生まれたばかりの新生児を実父が食べてしまうという事例もあるようだが、ヒトの場合は日本の統計では生まれてすぐの新生児の殺害については加害者は実母の方が多い。これは恐らくは社会的な要因があって、父親の援助がない状態での育児の困難さに絶望した母親が衝動的に行なってしまう可能性がある。
日本は伝統的に婚外子に冷たい社会である。何しろ婚外子率はわずかに2%である。そこで我が子を育ててゆくためには強さが必要なのであろう。強くない人は他の援助が当てにできないことから子どもと共に死への道を模索するかもしれないし、安易に内縁関係を結んでしまって、その相手の男が哺乳類の本能に忠実である場合、その男は自ら罪の意識など持つことなく自然のままに子どもを虐待するのかもしれない。
どうすんのよこれ、である。戦前の不文律では「据え膳食わぬは男の恥」だったわけだけれど、やることやって子供ができたならば男は責任取って結婚しろであった。戦後は左派リベラルさんが恋愛結婚とか吹き散らしたおかげで「恋愛じゃないから結婚しません」ということになって男の逃げ得を許したわけである。左派リベラルもフェミニストさんも自分の都合の悪いことには「見なかったふり」をやるので問題解決には至らないのである。戦後の学生運動で女子学生にモテて好き放題して責任取らずに逃げた左翼学生の成れの果てが左派リベラルなのでまあ、最初から問題解決には絶望的だということかもしれない。
性的虐待も男性が被害者の事例がついに槍玉に上がってしまった
性的虐待も日本では一般に加害者が悪い男で被害者が可哀想な女性というステレオタイプが強固であった。それに対して例えば、欧州での教会関係者による男児への性被害などを訴えても日本では性被害を受ける被害者は常に女性であるという先入主があったわけで、多くの左派リベラルは問題などなかったという態度をとっていたわけである。しかも加害者がむしろ救済されるべき側である性的少数者の男性同性愛者であれば、マジョリティは口を閉じろ!性的少数者こそ救済されるべきものであるから人権は同性愛者即ち性的マイノリティのものであり、異性愛男の権利とか人権は無かったことにせよというのが左派リベラルやフェミニストたちの正義ではなかったか。
つまり、男性アイドルを輩出してきた某芸能プロダクションの事例である。
あれもその存在は囁かれ続けてきたが、某社長氏の死後にBBCが暴露番組を出すまで日本のマスコミは一切緘口令を引いたかのように報道はゼロだったわけである。同様に、女性タレントによる枕営業の話もタブーに近いところはある。
恐らくは薄々はみんなが「これやばいんじゃない?」と思っていても口には出さないという態度が定着しているのが日本であろう。これは正しさが複数あるということかもしれない。
例えば、同性愛を隠している男性友人に迫られて性行為を強要された異性愛の男性はそのことを公にすることはアウティングなのか正当な行為なのかはっきりしないのである。「異性愛者のくせにちょっと強姦されたくらいで相手の性的指向を喋るなよ。異性愛者、マジョリティなんだから強姦されてもひたすら我慢すればいいだろう。アウティングなんてするのは間違いだ」と逆に指摘されそうではないか。
多くの人はそれはちょっと…と思うかもしれないが百人に一人、あるいは千人に一人でもそう主張するならばマスコミも左派リベラルもそれに負けてしまうのではないか。マジョリティが被害を受けても泣き寝入りして黙っていれば済むじゃないか、マイノリティが被害を受けるよりマシだろうということにならないか。男が強姦されても妊娠の危険はないのである。
何が正しいか、どうあるべきかという基準を決めることも必要
自由な社会では多くの人が自由な主張を行えるという自由を確保することは重要である。だからこそ日本では共産主義者であるというだけでしょっ引かれるという治安維持法は廃止された。だからといって相手を傷つけることまでは許されないのである。
簡単な例でいうと、「私は銀河帝国皇帝だ!宇宙の財産は全て私のものである」と叫ぶことは自由である。けれども、だからといって道ゆく他人の財布を取り上げてはいけないのである。
悪口も「自分が悪口と思えば悪口である」という左派の基準を採用すると、良かれと思って発した耳に痛い言葉を全て悪口扱いされそうになるわけである。この辺りは文化によっても変わるかもしれない。例えば学歴至上主義の父親が「〇〇高校に入れ、それより下の高校は許さん。〇〇高校に入れるようにしっかり勉強せよ」というのは微妙である。親が子供に勉強せよというのはそれなりの妥当性があるだろう。憲法にも親が子供に教育を受けさせる義務が明記されているわけである。けれども、例えば、その子が別の道に進むことを求めているのに、もしくは単に成績に差がありすぎて合格圏内に入ることが絶望的な状況であるときに同じことを言われ続けるとしたら、それは心理的負担が大きいことになるかもしれない。
そりゃ勉強しない子供を小屋に監禁して無理やり勉強させた場合には虐待では…?と思う人も多いだろうし、家庭用ゲーム機を取り上げるくらいであればそれくらいは虐待じゃないだろう、アルコール依存症の人から酒瓶を取り上げるのと同じだという人もいるかもしれない。この辺りについては線引きは曖昧である。親子の関係性や置かれている状況によっても判断は変わるべきなのだろう。
そんなのだから基準は決まらないよという人もいるだろうが、やはり基準を決めようという努力は必要だろう。子供たちを健やかに育てるためにはどうするのが良いのか。その基準を見つけてゆくのは旧世代の大人たちの役目なのである。