リベラルの原理
西洋リベラルがイカれているというより、原理主義がイカれているんだよね。リベラルってば原理主義だから現実と不整合が起こったとしても理論の方を重視する訳である。現実の方を重視するならば民族派、保守に近くなってしまう。
だから、例えば女子トイレで剣の舞を踊った女性自認のおっさんを「女性自認なので女性。女子トイレを使う権利は十二分にある」というのが原理主義的リベラルで、「はあ?おっさんが女性自認?単なる女装と何が違うの?そんな危ないおっさんを女子トイレや女湯に入れんなや。」というのは民族派的な考え方である。
つまり、リベラルを自称しながらMtFを女子トイレや女湯に入れるなというのは自己矛盾も極まりない主張なのである。保守派、家父長的な考えであれば女性は次代の後継者を生む大事な存在なので不用意に男に触れさせること自体を禁忌にする。
日本のショーグンの後宮である大奥では男子禁制であったし、大中華皇帝の後宮では男性器を切除した宦官しか後宮には入れなかったのである。
女性の領域である女子トイレや女湯を男子禁制にするかというと、これは異論がない訳である。けれども、どこまでを禁忌にする「男」と認定するかに議論がある訳である。ここで女性自認を「女性」であるとして男性器を持つMtFであっても女性自認でさえあれば女性として扱う原理主義的リベラルと男性器の有無で二分し、機能的に男性でないものしか女性として認めない保守的リベラル(もちろんこれにリベラルという語を冠する妥当性は別問題として)が分離したということであろう。
多様性という意味では単に二元論の切り分ける仕切りの位置が違うだけなのでどちらも二元論であることには変わりがない。ただ、保守的リベラルという名をつけた方の意見は保守派の意見とそれ程区別がつかない。もちろん、保守的リベラルの主張は「自らの性的安全」を守りたい、ということであって、家父長による「次世代を産む性としての女性の性的安全」を守るという意味とは僅かにずれている訳である。
女権拡張運動としてのフェミニズム運動ではむしろフリーセックスの伸長こそが求められた訳である。セックスは自由に行うが、女性の自由を奪う子供については拒否するために避妊法としてのピル解禁を求めていたのではないか。
男性器を拒否する方向性はフリーセックスとは相反するので、二元論で行けば保守的リベラルと家父長的保守派の考えはひとまとめにできる可能性が高いのである。
男の方はどうなんだということになれば、混んだデパートのトイレなどでは女子トイレに列ができていることがある。そういう時におばちゃんが二人組で連れ立って男子トイレに入ってきて「男子トイレの個室は空いているやないの」と言って平然と個室を使用することは何度も遭遇しているので、問題は既に解決済みである。
リベラルの人はこういう話は都合が悪いので「極論だあ」と叫んで多様性とは何かという議論は曖昧に誤魔化す人が多いのではないかと感じるのである。